生きにくさから生まれる想像力


福祉という言葉を辞職で引くと、だいたい「幸せ」とか「豊かさ」みたいな言葉が書かれている。福祉というと一般的に「弱者」とか「支援」とか「職能」とかを思い浮かべるけれど、結局のところ福祉とは「みんなの幸せを考えること」なのだ。そこには、高齢者も障害者も外国人もパパもママもない。なんらかの「生きづらさ」を感じている人たちに、みんなでちょこっとずつ手を貸してあげて、その「生きづらさ」をできるだけ解消できるようにしてやんべ、ということだ。

こんなことを言うと、なんでわざわざそんなやつに手を貸さなければいけないんだと思う人もいるかもしれない。でも考えてみれば、いつか自分も生きにくさを感じるような状況になるかもしれないのだ。転職に失敗したり、どこぞで病気になるかもしれない。事故にあうかもしれないし、弱者と呼ばれてしまうような立場になるかもしれない。

その時、自分だったらやっぱり誰かに手を貸して欲しいと思うと思う。だから、つまり、いつか自分が困った時、誰かに気軽に「助けてくれ!」と言えるように、今、助けを呼ぶ誰かの声に反応しておきたいと、そう言うことなのだ。今、誰かの生きにくさに手を貸すのは、要するに潜在的な自分の権利を守ることにもなる。まあ自分のためってことだね。

ただ、手を貸すといっても、「おーい、ちょっと手伝ってくんねーかい?」と言う声が聞こえたから、「いいっすよー、どうしましたー?」と返して手伝うくらいの、そんなレベルのことだ。それが福祉の本質かもしれない。「ポリティカルコレクトネス」なんて言葉を持ち出す必要もない。自分を含めた誰かの幸せを願って、そのために行動する。これってなんというか「おはよう」と挨拶するのと同じくらい日常的な振る舞いなのだ。

ただ、現実的には、そうした振る舞いは当たり前にはなっていない。「障害者」や「高齢者」といった言葉が続々と発明され続け、あたかも自分たちと離れたところにいる人たちだということになっている。法律や制度などで支援するため、何らかの定義づけをしなければいけないからだろう。その言葉や定義によって「健常」とは別のものだと区別されてしまい、生活環境は切り離されてしまった。だから社会のなかにさまざまな「障害」があることを、健常の人たちは気づくことができない。

草野公民館の前の物販ブース。お昼前ということもあって大盛況だった。

店頭に並んだお菓子たち。普通にうまい。お母さんたちがキャーキャー言いながら買い求めていた。

―誰かの「生きにくさ」を、そっと感じる場づくり

草野公民館で「たっしゃか草野」というイベントが開かれた時、会場の公民館の前では物販が行われていた。おいしそうなパンやらお菓子やらお惣菜が売られている。イベントが終わると、出口を出て来た人が続々と買い物にやってくる。30分もするとカゴの多くは空になって、売り切れの商品が続出していた。

そのお店は、いわき市の社会福祉法人「希望の杜福祉会」が運営する「アトリエ北山」というお店だった。専門用語では「就労継続支援事業所」と呼ばれる。通常の事業所に雇用されることが困難な障害者に就労の機会を提供するとともに、知識や能力の向上のために必要な訓練を行う場所。ここで訓練することで、給料を得ながら技能を獲得できるという場所だ。

ちょうど今しがた、たっしゃか草野では在宅医療の劇が上演されたところだった。脳梗塞に倒れ、後遺症が残るお父さんを、医師やヘルパーやケアマネや薬剤師がさまざまにフォローし、お母さんとともに患者を支えていくという内容だ。脳梗塞の後遺症は人によって様々で、長期的に体が不自由になる場合もあれば、リハビリを経て病気前の状態を取り戻す人もいる。いずれにしても、これまで何の不自由なく暮らして来た人たちが、何らかの「生きにくさ」を感じることになるのだろう。

誰かの「生きにくさ」を共有すると、そこから想像力が育まれる。そしてその想像力は小さな行動になる。行動が習慣化され、それを実践する人が増えると、少しずつ社会は変わっていく。だから、最初の第一歩は「誰かの生きにくさを共有すること」から始まる。「障害者」や「高齢者」を切り離すのではなく、むしろ一緒に時間を過ごしたり、じっくりと向き合う。そういう時間や場が必要だ。そのくらい、今の社会は「生きにくさ」を漂白して見えなくさせてしまっているから。

だから、草野公民館の前の物販の光景がとてもよかった。病気による生きにくさや、障害による生きにくさ、高齢による生きにくさ、さまざまな「生きにくさ」を抱えた人たちが「ごちゃまぜ※」になって1つの場を共有する。一見すると何の障害もないように見える。けれど、接するたびに、実は様々な生きにくさを抱えていることを知るに至る。気づいた生きにくさを自分にも当てはめてみる。それを繰り返すと、想像力が立上がってくる。

※内郷にある就労支援事業所「ソーシャルスクエア」では、「ごちゃまぜ」という言葉を使って、楽しみながら多様性を体験できる場づくりを行っている。障害の有無、国籍、性別や年齢など関係なく楽しめる場を作ることで、多様性を受容できる人や場を地域のなかに育もうという取り組みだ。その活動から「ごちゃまぜ」という理念が生まれた。今回ここに書いていることも「ごちゃまぜ」という言葉以外にぴったりくる言葉が見当たらなかった。改めて「ごちゃまぜ」という言葉を再発見した同法人の活動に敬意を表します。

物販ブースは、生きにくさを抱える人たちが、ゆるく、そっと繋がれる場になっていた。

大盛況に終わったたっしゃか草野。この場所もまた、生きにくさを、そっと共有できる場になっていた。

―障害とは自分自身の問題でもある

あえてここで「障害」を「生きにくさ」としてみる。するとどうだろう。自分にも同じような実感が生まれないだろうか。このご時世、みんなそれぞれ「生きにくさ」を抱えている。「子宝」なんて言ったって、子どもを持つこと自体が「生きにくさ」を生んでしまうな時代だ。イジメの問題もある。ブラック企業の問題も、人間関係も貧困も、あるいは原発事故だって数多くの「生きにくさ」を生み出している。この世の中は「生きにくさ」だらけだと言ってもいい。

障害とは、自分と切り離された別の誰かの問題ではない。自分自身の問題なのだ。誰かの「生きにくさ」を解消することは、自分の生きにくさを解消することでもあるし、高齢者の生きにくさを解消することは、数十年後の自分の生きにくさを解消することでもある。福祉とは「高齢者のためにやること」じゃない。自分を含めた誰かの居心地のよさのために動く(いごく)ものなのだ。

たっしゃか草野も、いわき各地のつどいの場も、そこに協力してくれる社会福祉法人も、地域包括センターも、いわき市役所も病院や施設も、そして何らかの「生きにくさ」を抱える私たちも、もっと互いに連携してごちゃ混ぜになって、そしてそこからじわじわと「生きにくさ」を共有して想像力を育んでいかなければ、「自分らしい人生を最期まで全うできる社会」なんて実現できるだろうか。

だから、たっしゃか草野でアトリエ北山の皆さんが物販をするような「生きにくさ大集合」みたいなものをもっとやってみたら面白いのではないかと思う。「生きにくさを抱えてる人集まってー!」なんて誘ったら、案外10万人くらい集まってしまうかもしれないし、その10万人がいごいたら社会なんて意外と簡単に変わっちまうのかもしれない。

そんな果てしない夢想の種が、アトリエ北山さんの物販ブースのカゴのなかに転がっていた。今思い返すと、そんな気がするのだ。


公開日:2017年09月18日