現役60年。不変の医学と変化する医療

中之作 中山 元二さん①


いわき市中之作に28歳で診療所を開き、医療の道をひた走ること60年。開業医として地域医療を支え、88歳の今なお現役の医師として、多くの患者の生活を支えている人がいる。かしま病院名誉理事長、いわき医療福祉界のレジェンド、中山元二(もとじ)先生である。いわきの地域医療、在宅医療、そしてこれからの医療を考えるうえで、絶対に避けては通れない中山先生の存在。「いごく」では、その中山先生のロングインタビューを、前後編、2回にわたって紹介していく。

包み込むような優しさと威厳、そして豪放磊落さを兼ね備えた方だった。語られる言葉が明晰である。そして若々しいのだ。一つの時代を築き上げてきたことの重みとプライド、尽きることのない探究心が、言葉にフレッシュな力を与えていくからだろう。おじいちゃんと話しているようでいて、野心ある若者と話しているようでもある。医療の話をしているのに、どこか哲学の話をしているようでもある。

気づくと、手元のレコードプレーヤーの録音時間はあっという間に1時間半を超えていた。それなのにもっともっと話を聞いてみたくなる。そんな対話の痕跡を2回にわたって書き綴っていく。前半は、中山先生の開業から、かしま病院の立ち上げ、さらには医学や医療に対する考えなどを語って頂いた。

筆者の解釈をできるだけ廃するために、いわゆる「地の文」をなくし、すべてのテキストを、先生の言葉で書き綴っている。最低限の構成は直しているが、録音をできるだけそのまま書き起こした。目の前に出されたお茶の存在を忘れ、思わず身を乗り出しながら先生の話を聞いている。そんな光景をイメージしながら読み進めて頂けたら幸いだ。

1時間半にわたりインタビューに応えて頂いた中山元二先生。中之作の「中山医院」の初代院長として地域医療を支えてきた。

−ふるさと中之作での開業

ぼくが中之作に中山医院を開業したのは、昭和33年1月15日、今から60年前、28歳の時。今年で88歳になるから開業してちょうど60年になるね。いやあ、この60年間の医療の変化というのはね、ものすごいものがありました。60年前の医療というのは、今から見ると未発達な時代でね、開業当初は結核、腸チフスの感染症の患者さんが多かった。

開業したときにはね、聴診器を使って問診したり、ちょっとした血液検査くらいしかできなかった。設備といっても、外科の先生は手術室を持ったりしていたけれども、開業医の先生の多くは、具合の悪い患者を入院させて様子を見たり、あとは基本的には往診でした。ベッドの数もそんなに多くなかったからね、在宅で見ていく。そういう時代でした。

昭和40年代に入って生活習慣病、成人病というのが入ってきた。昭和50年代に入ってくると、ガンだとか、脳卒中、心臓病などが浮かび上がってきたんだね。なぜかというとね、昭和40年代あたりから急速に医学が進歩して研究の成果がどんどん出てきた。高度経済成長に伴って食生活が豊かになってきた時期にも重なるでしょう。それで糖尿病、高血圧、心筋梗塞なんていう病気が増えてきたんだね。当時は、糖尿病の患者なんてのは、糖尿病Ⅰ型、つまり遺伝的な方しかいなかった。

改めて考えてみると、成人病や生活習慣病は、今ではほどんと出尽くして、それに対する対応もほとんどピークに達していると思います。これまでは急性疾患や救命のための医療が中心だったけれども、これからは、もちろんそのような医療もあるけれど、あくまで中心は高齢者医療になっていくと思います。

国の方針もそうなってきたね。介護保険制度、地域包括ケア制度が出てきた。これまではみんな病院で面倒をみてきたけれども、病院は救命救急や急性疾患への対応、つまり病気を治すことに集中して、そうじゃなければ、在宅で住み慣れた家で最期を迎えようと。それは国の方針でもあるし、皆さんもそれを求めてきてるんだ。だから今は、治す医療じゃなくて「支える医療」だって言うんだ。いやあ、言葉ってのは時代に合わせてうまくできるもんだな(笑)。

先生が60年前に開業した中山医院。中之作の漁港のすぐそばにある。地域医療の中心的存在。

常に人と会っているからだろうか、目の前にいる中山先生は溌剌とした言葉を発せられる。とても88歳とは思えなかった。

−若さゆえの開業

そもそもなんでぼくが医者を目指したのかっていうとね、まあみんな動機はありますよね、医者は金が儲かるとか(笑)、でもお金をちゃんっと稼ぎたいってのは真っ当な人でね、ぼくなんかが開業した当時は保険制度もなくて、医者は全然儲からない貧乏な仕事だったですよ。

当時は、みんな医者にかかるのは自費です。中之作は港町だから、お金の代わりに魚を持ってきたり、うちで採れた野菜だって言ってね、それを持ってきてくれたり、そんなことを繰り返していくうちに保険制度ができて、ようやく生活できるようになったんだ。

だからねえ、なんで医者になったかって、若かったんだろうねえ(笑)、江戸時代に「赤ひげ」なんてのがあってね、小石川療養所というのを開いて貧民を救った医者がいて、そういう生き方に惹かれてたんだ。

ぼくの爺さんが村長さんだったのもあるかもしれないね。爺さんは当時の江名村の村長さんだったんだけどね、江名が町に格上げになった時に、つまり初代町長になって、それでぼくが生まれる3年前に亡くなってしまったんだけど、なんというか社会性というのかね、常に地域を見るようなところがあってね。大学に残って医学の研究しようなんて考えはまったくなかった。開業して地域のなかでもってね、医者をやるんだって気持ちがあったんだろうね。

同級生は大学に残って博士号とって研究生活に入りますよ。そのあと地方の病院とかに派遣されて、腕を磨いて大学に戻って来て…というのが普通です。開業が28歳なんて、当時は一番早かった。まあ本当によくやったなあと自分でも思いますよ。

いわき市鹿島にあるかしま病院。地域の医療、福祉を支える大切な場所。

−「医療」と「福祉」の両輪

日々医療が進歩していくと、また別の問題が出てきます。国民皆保険になってたくさんの国民が病院を受診するようになると、開業医と総合病院の格差が大きくなってくるんですね。開業医の患者さんは次々の大型の総合病院に殺到する。それで「3時間待ちの3分診療」なんて言われたりしてね、そのくらい総合病院に行く人が増えて、開業医の数はどんどん減ってきた。それで、開業医の先生たちが集まって新しい病院はできないか、ってことで、このかしま病院が生まれたんです。

開業してから20年くらい経った時だったかなあ、子供たちはみんな医学部に行っていたから、多分ねえ、大学で研究を続けたいと思ったはずですよ。でも、親父が道楽で病院作っちゃったもんだからそれに巻き込まれちゃったんだな(笑)。長男だけは今でも大学で研究を続けてるけれども、娘と次男はこっちに入ってもらってね。親父が開いた病院で仕事できて光栄だなんてことはないよ、今でもボヤかれるんだから(笑)!

病院を立ち上げるにあたって大事にしたのが「リハビリ」でした。もともと、かしま病院の構想よりも先に特別養護老人ホームの話が進んでたんだ。あの当時は、脳卒中とかの成人病が増えてきた時代でしたからね、脳卒中で倒れてしまって、そのままリハビリするでもなく家でゴロゴロするだけの患者さんをよく往診していました。

入院させるにしてもベッドもそんなになかった。それに、お嫁さんや娘さんも仕事に行ってしまうから、脳卒中の後遺症があるおじいさんおばあさんが家で取り残されてしまうんだね。こういう人を誰が見ていくんだって考えたとき、寝たきり老人をなくしたいという気持ちが強く生まれてきて、特別養護老人ホームが必要だと思うようになったんです。

当時、社会福祉法人が常磐に「いわさき荘」という特養老人ホームを立ち上げていて、そこを見させてもらったとき、こういうのがあるといいな、こういうの作りたいなって思ってね、土地を探ししたりして、それでこの場所に決めて、「かしま荘」という特養老人ホームを開所したんです。それがぼくが52歳の時。昭和57年。今でこそ「病院と福祉は車の両輪だ」なんていうけれども、当時から、ぼくもそういう感覚だった。

医者を目指した理由を「若かったんだな」と豪放に笑い飛ばす中山先生。

−“趣味道楽”が作り出した病院

そんな話も進んでいたもんだからねえ、病院をやろうっていうときに、そのかしま荘の隣の敷地に病院を建てることになった。ぼくたちの開業医の仲間もみんな忙しくて、一方では少しずつ患者さんが減っていくんですね。患者さんに共立病院を紹介すると帰ってこないんだ。共立病院も、それに合わせて、当時250床だったのをピークで1200床くらいまで増やしたくらいだから。

そういうこともあって、じゃあ仲間たちで開業医が集まって開放型の病院を作ろうと。今でいう「病診連携」「病病連携」の走りだね。地域の病院と診療所が連携して地域の医療を支えていく病院にしようと。そのアイデアがよかったのか、開設する前に「医療法人」の認可を県から頂くことができてね。普通は開設して3年5年と時間がかかるものなんだけど、病院を開設する前にもらっちゃった。

ただねえ、さあ病院の建設だと言ってもね、だいたい10億円くらいかかるわけです。みんな小銭は持ってるけど億なんて金は持ってない(笑)。それで、理事の先生方が保証人になって、建てた病院を担保にしてくれるならっていうことで銀行が融資をしてくれたんです。

でもね、これ、病院の経営がうまくいかなかったら協力してくれた先生方に迷惑をかけちゃうでしょう。だから最初は本当に大変でね、しばらく無報酬でやりました。黒字が出るのに10数年かかったかなあ、ようやくこの15年くらいかな、やっと給料らしい給料が出るようになったのは。

まともに計算して、まともな経営感覚を持ってる人だったら、こんな病院作らないよ(笑)。だから病院作ったのは道楽だって言ってるんだ。趣味道楽のために病院作ったんだって。本当はさあ、目の前に海があるんだからさ、今ごろは船なんか持ったり、豪華客船で世界一周旅行とか、そんな未来もあったかもしれないけどしょうがない。自分が言い出しっぺだからな。まあ、でも、今のかしま病院やかしま荘は地域になくてはならない存在になっていると思っています。

−不変の医学、変わる医療

いずれにしても、これからは在宅医療含めて、地域包括ケアの方向に医療は向いていきます。訪問看護、在宅医療がどんどん進んでいくでしょうねえ。厚生省やなんかがいろいろな方針を出してくるけれど、医療は現場のほうが10年先に行ってますよ。だから現場がしっかりと見て、何が必要なのかを考えていかないといけないんだ。

じゃあ、何が今最先端かって言えばね、大学じゃなくて、やっぱり地方の病院の現実のほうです。うちの病院にも研修医が来てるけど、彼らはね、病院に入院している人のほとんどがお年寄りだっていう光景を見たことがないんだ。

彼らがいる大学病院っていうのは、患者さんが病気を治すために来るところ。でも、ここに来るとみんな寝たきりだ。だからねえ「君たちは今、日本の医療の最先端のところにきてるんだ。寝たきりのお年寄りばっかりだと思ってたら間違いだぞ」って言ってやるんだ。

もう一つ、研修生に言ってやることがある。それはね、医学と医療は何が違うんだ? ってこと。ぼくらの病院の法人名は「養生会」というんだけど、これは武見太郎さんっていう初代の日本医師会の会長だった方の人の言葉に由来しています。「養生の本は真実に生き真理に徹するにあり」とね。そこから養生ととった。

その武見先生は、医療は医学の社会的適応であると言った。これはねえ、実にいい言葉だなって思うんだ。だから学生にも言うんだよ。いいか、対象者が変われば医学の提供の仕方も変わるということなんだよと。不変のものとして医学はあるけれど、時代に応じてね、医療は変わっていかなければいけないんだって。

だからぼくも、今の地域医療に何が求められているのか。患者さんは何を求めているのか。まだまだ現場からしっかりと見ていきたいと思います。

インタビューその1 おわり


公開日:2018年03月19日

中山 元二(なかやま・もとじ)

福島県いわき市中之作生まれ。医療法人養生会かしま病院名誉理事長。中之作「中山医院」初代院長。28歳で中山医院を開業し、特別養護老人ホーム「かしま荘」、かしま病院を次々に開業。現在も、かしま荘を中心に利用者の健康管理を行う現役医師である。