二ツ箭と呼吸する日々

小川町 菅野 豫さん


小川に90歳のヨガの先生がいるんだ。

最初にそう市役所の方から聞いたときには、何の実感も湧かずに「ええ、すごいっすねー」くらいのなまっちょろい返事をすることができなかったのだけれど、じゃあ実際に見に行ってみようということで小川の「つどいの場」に行ってみたら、本当に90歳くらいのおばあちゃんが地域のお母ちゃんを従えながら、けっこうキツそうな体操ををしていて、正直目を疑ってしまった。そして目を疑っているうちに、いつの間にか自分もその体操の輪に加わっていて(お母ちゃんたちにやれと誘われて)、改めて先生と同じ動きをやってみたら、もっと深く分かった。うわあ、これはすごいやって。

常に呼吸のリズムを大切にし、指先まで神経を集中させ、体と心の統合を図るような1つひとつの動き。あの、ほんとうに楽じゃないんです。ストレッチすると体は固いし重いし、先生が指示するような動きなんて完璧にはほとんどできない。それなのに先生は、息を大きく呼吸する「すー」っという音を立てながら、右に左に、上に下に自由に体を動かし、関節を伸ばし、筋肉を鍛えているのであった。いつしか「90歳のおばあちゃん」という認識はどこかへ抜けてしまい、ただ単純に目の前にいる「ヨガの先生」の声に集中している自分がいた。

地域のお母さんたちが生徒になって菅野さんのヨガレッスンが始まる。

じっくり体をほぐしながら、血の巡りをよくしていく。見事な体さばき。

菅野豫(かんの・よ)さん。 昭和ウン年(ん? 大正?)生まれの92歳。ただこれ、ご本人に直接伺ったわけではない。「先生のお生まれは何年ですか?」と聞いたら、「あんた、そんなことを聞くもんじゃないよ。何歳だって構わないんだから」と叱られてしまって、仕方なく周囲のお母さんたちに年齢を伺ったものだ。思わず反省した。先生は「お年寄り」という顔の見えない存在ではなく、1人の人間である。その目の前の誰かと向き合わずに「お年寄り」というレッテルを貼って、お生まれは何年ですか?なんて、まったく失礼な質問をしてしまった。反省。

菅野さんは、体操を初めてもう30年近くになるという。「若い頃は学校で仕事をしてたの。その頃、体操覚えて、それからはヨガの動き取り入れて、自分で研究しながら体操を組み立ててるの」と菅野さん。つどいの場での体操は週に2回。いつもヨガの手引きを持ち歩いていて、そこに自分なりの注釈や動きを加えながら、参加者の年齢や状況に応じてその日の体操の組み立てを考えていらっしゃる。肩が動かしにくい人がいれば肩をじっくりほぐし、寒いと感じる人がいる時は有酸素運動を多めに。こうしたきめの細やかさが、生徒さん(地域の母ちゃんたち)の心つかんで離さないのだろう。

それにしてもね、それにしてもですよ。90歳を超えてるとは思えない。菅野さんからしたら孫みたい存在の私たちがなかば苦悶の表情を浮かべているのに、菅野さんは涼しい顔。とにかく関節が柔らかいのと、筋力がおありなのだ。「あんたたちね、急にやってできるはずがないでしょ。何ごとも続けるこどなの。今日からだって遅くないがら、続けてやんなさい」とアドバイス。菅野さんを目の前にすると、「うむ、何ごとも継続は力ですね」なんて気楽なコメントは吐いていられない。「はい、なるべく続けてみます」と、冷や汗をかきながら返すことしかできなくなってしまう。

指先まで意識を集中。息を吐く音だけが会場に響き渡る。

先生にヨガの大事なポイントを伺うと「呼吸」だという。「鼻から吸って口がら吐くの。できるだげ体の動きを合わして、ゆっくり、深くね。そうすっと体が倒れていぐがら。それがら時間かげでやっこどね。指さぎまで集中して動かさないと、ヨガにはなんねがんね」。

そんなアドバイスをもらう頃には、すっかり菅野さん、いや、菅野先生のファンになってしまってて、「はい、頑張ります!」と威勢のいい返事をしてしまう。先生、動きだけじゃなく、言葉にもどこか凛としたものがあって若々しいのだ。そして、年相応にゆったりとした動きなんだけれど、挙措には無駄がない。ちょっとなんというか、職人っぽさというか、達人ぽさというか、そういうものまで感じられるようになってしまう。ああ、もう先生のファンになってしまったようだ。

体操が終わったら「今日は若い人たちが来てるから歌を歌いましょう」と先生。準備された歌謡集から、2つ3つ童謡を選んで、みんなで歌うのだ。もうその頃には恥ずかしさはなく、お母さんたちや菅野さんたちと声を出しあった。なんだろう、昔懐かしいのとも違う。自分の婆ちゃんとの思い出というのとも少し違う。今、現在進行形のお母ちゃんたちと触れ合うということの新鮮さ。純粋にそれを楽しんでいるのだった。

お母ちゃんたちと、こうして体を動かして、先生にアドバイスされて、みんなで歌を歌って。初めての体験で、そして、汗をかいたこともあってちょっと爽快だったりして、みんなでお茶を飲むのがうれしくて。ああ、目の前のお母さんたちも同じように楽しんでんだなって気がついた。

ヨガの終わりには笑いを取り入れる。みんなでワッハッハと笑って、ヨガが終わるのだ。

ヨガが終わったら下の部屋でお茶会。菅野さんもお母さんたちも、これが楽しみなのだ。

体操が終わって菅野さんが窓を閉めるとき、外を眺めながらこう言った。「若い人らは二ツ箭山知ってっけ? 小川の人はみんなあの山見て育づんだがんね。本当にきれいで、桜がある頃も、紅葉の頃も、雪降ったってきれいなんだがら。草野心平っているでしょう? 草野心平だって二ツ箭山の詩、いっぱい作ったんだがら。本当に最高だョ。こうして山眺められで」。

きっと先生の胸のなかには、これまでの90年の、なにかもう色々なものが、ぐるぐるとしながらも、それらをひっくるめて、山を見て、愛でてらっしゃることがわかって、なぜかこちらもうれしくなってしまった。ふるさとを持って、そこで、いろいろなことがありながらも、地域の自然とともに、年を重ねていく。それはとても羨ましく、そして輝かしく思えた。

菅野さんが大好きな春の小川。各地で桜が咲き乱れる。

確かな足取りで帰路につく菅野さん。来月また会いましょう!

それから先生とは旅の話をした。先生は、毎年毎年どこぞに旅行に出かけるらしい。フランスもイタリアも、ロシアもアメリカも、それから北海道も旅したそうだ。ついこないだは礼文島に行って山に登り、高原の美しい草花を見たと話してくれた。ちなみに、毎年インドには行ってて、最新のヨガのリサーチをして、自分を高めていらっしゃるそうだ。もうね、すごいんですよおれたちの菅野先生は。なんならみんなも来てみなよ、体動かしてみなよ、なんて得意げに言いたくなってしまう。

下のお部屋でみんなとお茶を飲んで、そしておしゃべりをひとしきり楽しんだら、お母さんたちも菅野さんも散らばってそれぞれの帰路につく。帰り際、菅野さんは、燦々と照っている太陽を見上げると、ハンドタオルを取り出し、頭のうえにひょいとかぶせて、それを帽子替わりにして、歩いて帰っていった。

「先生さようなら」と声をかけると、手を挙げて応えてくれた。その足取りはしっかりしている。先生のことだ。来週はどんな体操にしようかしらと思案しているに違いない。また来週、無理なら来月でもいい。またここに来て、みんなで体を動かして、二ツ箭山の話がしたいと思った。そのためにもまずは腹筋かな。はやく先生に追いつかなければ。

文・写真/小松理虔


公開日:2017年09月18日

菅野 豫(かんの・よ)

いわき市小川町生まれ。ヨガインストラクター。週に2度、小川町のつどいの場「いかりがわ商店」にて体操講座を開講。趣味は旅。これまで世界各地を訪れているだけでなく、毎年インドに赴くなどヨガの研究にも余念がない。