多死社会における理想の「住まい」とは


ぼくたちの社会は、別に見なくてもいいものは見なくてもいいように設計されているけれど、それは「見なくてもいい」だけであって、「直面しなくていい」わけではない。人は死にたくないと思っていても死ぬ運命にあるし、病気にだってなるし、あれだけ「オッサンになるのはイヤだ」と思っても、自分がオッサンになっていくのを止めることはできない。

お釈迦様は、人生のなかに四つの苦しみ、つまり、生・老・病・死の「四苦」があるのだと言った。昔は、念仏を唱えたり、仏の教えを学びながらその苦しみを取り除こうとした。現代では、「医療」や「福祉」が、その苦しみを最小限のものにするために活用されている。よりよく、より苦しみを小さくするため、医療や福祉は存在している。

ところが、やっぱりそこから「漏れてしまう」人たちは存在する。いろいろな制約があって医療や福祉のサービスを充分に受けることができない人たちだ。金銭的な理由、家族の事情、あるいは情報不足、障害の有無などもあるのかもしれない。長寿を楽しむ人たちが大勢いるなかで、「四苦」に縛り付けられてしまう人たちもまた存在しているのだ。

いわき市地域包括ケア推進会議「すまい部会」と銘打たれた会議。

住まいをアップデートすることで四苦をやわらげる

人類最大の苦しみである、その四苦をできるだけ和らげるため、いわき市の地域包括ケア推進会議が中心となって、医療・福祉の観点から「住まい」をアップデートしようという取り組みが始まっている。キモは、医療福祉に関わる人たちだけでなく、不動産、寺院、葬儀などに関わる人たちも「ごちゃまぜ」になって議論を交わす点だ。

12月6日、いわき市平平窪にある障害児支援センター「エリコ」で、その会議が行われた。会場に集まったのは、市役所職員、ソーシャルワーカー、老人ホームの施設長、各地区の保健福祉センターの職員、葬祭会社の経営者、寺院の住職、不動産会社の経営者など20人あまり。暮らし、そして老い、病気、死、つまり「四苦」に関わる人たちである。

試みは始まったばかりだが、寺院の住職などからは、埋葬や供養などについての問題意識も提起された。

この会議の狙いは、おおまかに言えば次のようなものだ。

医療や福祉のサービスを受けられない人たちや、家族や会社というコミュニティから離れてしまった人たちを包摂するためには、日常の暮らしの拠点である「住まい」をアップデートする必要がある。住まいを、間接的に地域の医療福祉と接続し、そこに住む人と、適切サービスや情報とつなぐ。それができれば、理不尽な孤独死を防ぐことにつながる。

具体的には、例えば中古アパートなどをリノベーションし、身寄りのない人たちに集住してもらい、その場所を地域医療や福祉の中継地点にしてしまう。そうすれば、個別に訪問するよりも圧倒的に社会コストを抑えながら、巡回する医師や看護士、ソーシャルワーカーと住人とを接続することができる。新しい福祉型シェアハウスとでも呼べばよいだろうか。

人が集まることで情報が届き、人の目や関わりが孤独を防ぐ。そのような福祉型シェアハウスを市内の各地に持つことができれば、冬場は特に厳しい生活を余儀なくされる中山間地域の高齢者や、ニュータウンなどで独り暮らしを続ける人たち、あるいは、特養老人ホームなどの抽選に漏れてしまった人たちなども、独りより安心して暮らすことができる。

独り暮らしの人たちが離れてバラバラに暮らしていると、地域の医療や福祉の目も行き届きにくくなり、理不尽な孤独死を増やしてしまうことにもなりかねない。もちろん「独りで暮らしたい」という意志も尊重されるべきだ。だから、老後の「住まいの選択肢」を増やそうというのが、この会議の主たる目的である。今は選択肢が少なすぎるのだ。

これからの時代にあった福祉型のすまいづくりとは。

病、老、死、三苦のリアル

まだまだ試みが始まったばかりで、ここからどのような施策に落とし込まれるのかは未知数だけれども、このような会議が模索される背景には、いわき市が抱えるガチな社会課題がある。一言で言えば、いわき市は「健康に問題を抱える独り暮らしの高齢者が多い」という課題を抱えている。少し数字を列挙して紹介してみよう。

平成29年時点で、いわき市には95,000人の高齢者が存在している。全人口のおよそ29%だが、これが10年後には、数が10万人を超え、高齢者率は32.9%になる。まあそれだけなら他県の自治体と同じかもしれないのだが、実は、その中身が良くない。

いわき市の場合は「介護が必要だという認定」を受けている人たちの割合が20.3%と、全国平均の17.9%よりも高い。さらに、95,000人いる高齢者うち、その9.6%が「独居世帯」だという統計がある。例えば、同じ福島県の郡山市では、高齢者の独居世帯の割合が6.7%なのと比べるとだいぶ差がある(全国平均は9.2%)。つまり、健康に何らかの問題を持っている高齢者が多く、しかも独り暮らしも多いということ。

いわき市は、他県に比べて健康診断を受ける人たちの数が少ないと言われている。さらに、もともと味の濃いものを好む市民性があるため、生活習慣病に罹患する人が多い。それなのに健康診断を受けず、自分の体調を知らずにいるので、いきなり心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病などに罹患して重症化する人が少なくないそうだ。

医師の数が限られ、病院や施設も限られるのに、重症化、しかも心臓や脳といった極めて重大な部分に問題を抱えた大勢の人たちが病院に担ぎ込まれてくる。助かったとしても、脳の場合は障害が残ることが多く、その後は福祉の人たちの手を借りることになる。もちろん、そうしたサービスを受けられる人たちは、まだ恵まれているのかもしれない。

介護や福祉、医療だけでなく、葬儀や供養、住まいに関わる人たちも参加することで多様な議論に。

問題は、そうではない人たちだ。適切な医療を受けられない。看取る人もなく、そのご遺体を片付ける人もいない。それでも、誰かが埋葬し、誰かが供養し、誰かがそのお墓を管理している。亡くなった人に家族も遺産もなければ、その費用は誰が負担することになるのだろう。ただでさえ負担の大きいところに、さらなる負担が舞い込む。これでは医療や福祉、介護などに関わる人たちも自治体も負のスパイラルに陥ってしまう。

普通に暮らしていくことのできる私たちは、いざそうなってみないと分からないけれど、四苦に関わる問題を見ていくと、いわき市の抱える問題の根深さが見えていく。この会議でもそうだった。私たちは知ることのない想像を絶する苦労話ばかりが飛び出してくるのだ。知る必要はないのかもしれない。けれど、実際に起きている、同じいわきのこと。

いわき市内の各地域の暮らしぶりや事情に合わせ、「地域別カスタマイズ」された住まいの発案が望まれる。

死までの道程を「設計」するということ

会議のなかで、色々な方が発言されていたが、冒頭で発言されていた男性の発言が印象に残っている。それは「老いることや介護のことや家族の死のことを、前もって考えていける地域にしていかないと根本的には解決しない」という趣旨の発言だった。

日本はこれから多死社会になると言われている。私たちが想像する以上に、私たちの身近に「死」がやってくる時代になるのだろう。老いること、病むこと、そして死ぬことを「縁起でもない」と避けるのではなく、むしろ正面から捉えていかなければ、この問題は解決していかないのではないかと考えてしまった。制度や法律以上に、私たちの意識も、そこに追いついていかなければならない。

私たち世代も無縁ではない。子どもを生まないという決断をした人たちの「死後の後始末」をどうするのか。絶えてしまった家のご先祖の墓をどうするのか。自分がいなくなった後の家をどうするのか。財産はどうするのか。「個」が尊重される時代だからこそ、自分の「四苦」を、家族や隣人に放り投げるわけにはいかないのだ。

私たちは好むと好まざるとに関わらず、自ら「四苦」と向き合い、死までの道程を、可能な限り設計していかなければいけないのかもしれない。個人がそうなっていくのであれば、地域もまた、多死を前にバージョンアップされるべきだろう。どのような「住まい」がベストかはまだ誰にも分からない。しばらくは、みんなで走りながら考えるしかなさそうだ。

すでにヒントはある。川前地区では、冬場の独り暮らしに不安を持つ人たちが、地元の施設「鬼ケ城」に冬季限定で集住しようという計画が持ち上がっている。地域によって異なる課題を、その小さな地域だからこそ導き出せる最適解によって解決する。住まい方も同じだ。その地域に寄り添いながら、新しい「住まい」の形が提示できれば、それは地域の魅力発掘にもなるかもしれない。だからこそ、地域のみんなで、走りながら考えていかねば。


公開日:2017年12月07日