いわきの潮目の、その「へそ」へ


この「いごく」でこれまでたびたび取り上げてきた、内郷白水町川平地区。その町を訪れるのは、いつも夜と決まっていた。川平集会所で開催される「レイヴパーティ」を、いごくではたびたび「おもしろおかしく」取り上げてきたが、それがあまりに魅力的すぎたのだ。

日が沈んだあと、川平行きのバスに揺られながら白水阿弥陀堂を超え、不動山トンネルを抜けると、どことなく異世界を走り抜けるような感覚になる。夜の川平特有の、あの浮遊するような感覚。それが味わいたくてわざわざ夜に訪れていた、というのもある。

しかし、ふと思った。昼の川平は何も知らないのだ。もしかすると、川平は、夜にしか見えない幻の町なのではないか、という気がしてきた。集会所に来る人たち、あのふざけた父ちゃんも母ちゃんも、すでにもうこの世には存在しない人たちで、私たちは、その幻影と酒を飲み交わしていたのではないか。あのバスは、私たちを異界に連れ去る乗り物だったのだ。どうりであの浮遊感。合点が行く。あれは、現世から解き放たれ、幽体離脱した私たちの魂の浮遊だったのだ。

私たちを異界へと誘った不動山トンネル。適度な長さ。そしてこの圧倒的な闇のトンネル感。昼間見ても、トンネルの奥が異界であることを感じさせてくれる。

というわけで、今回紹介するのは昼の川平。私たちは、あの夜に味わった狂乱が幻でなかったことを確認したかった。そして、あの父ちゃん母ちゃんたちがどのような日常を送っているのか、その暮らしを見てみたかった。それでどうしても昼の川平が見たくなってしまって、それで、川平地区の馬目区長さんに無理を言って、日中のクソ忙しい時間を調整頂き、こうして昼の川平を案内して頂いたのである。いやあ、区長、すみません。

川平地区は、湯ノ岳のふもとの小さな集落。ざっくりいえば、湯本と高坂の間、湯の岳の麓に位置する。ロッコクの内郷一ノ坪の交差点から白水阿弥陀堂方面に入り、その道路のドンヅマリが川平。炭鉱にゆかりのある人じゃないと「川平」が「かわだいら」と読むことなんてほとんど知らないかもしれない。常磐炭鉱の最初の石炭が発掘された「弥勒沢」の奥のほうにあることから、常磐炭田のもっとも早い時期に開発された土地として知られる。

馬目区長、自ら川平地区を案内して下さった。自分の思い出とともに語ってくれるので、言葉の入り方が違うんです。

白水川沿いに線路が敷かれたことがよく分かる資料。番号21〜23、24あたりの建物が白水小学校のすぐ南側にあたる。

かつては映画館などがあった場所には、ソーラーパネルが置かれていた。

一山一家の面影

ちょうどこのあたりの地区は、炭鉱の「坑」、つまり石炭を取る穴ごとに、住居などが整備されたところだ。例えば、川平には「入山採炭川平坑」があった。入山採炭というのは石炭を採る会社の名前。つまり、入山採炭という会社が川平地区につくった坑で働く人たちが暮らすところとして、川平地区は整備されたわけだ。

頂いた資料を見ると、地区ごとにグラウンドや映画館や集会場が整備されていることが分かる。つまり町だ。一山一家という言葉が示すように、川平地区は「入山採炭川平坑」を支える人たちの町であった。白水地区には、このような坑がいくつもあり、それごとに小さな地区がつくられていた。

郷土史家の鈴木貞夫によると、採炭が始まる前のこのあたりの地区には農家が数軒ほどしかない小さな集落だったそうだ。このあたりの丘陵は農家の入会地であったそうで、それゆえ「入山」と呼ばれたという。弥勒沢に近く、江戸時代から採炭が行われていたため開発が早かったようだ。(『いわき市内郷白水における明治期の炭礦とその変遷』より参照)

1957年に撮影された川平地区の写真。膨大な数の「炭住」が並んでいる。いかに賑やかな土地だったかを示す貴重な写真だ。区長の家で見つかったそうだ。

常磐道が開通したあとの川平地区。白水小学校の校庭と校舎がハッキリと見える。

かつての炭住。往時の雰囲気を今に伝えてくれる。

かつての炭住を思わせる住居もまだ残っている。以前から、湯本や内郷の採炭地を訪れると、屋根瓦のない、屋根に黒いシートを打ちつけただけの家をよく目にしていた。区長に聞くとこれを「紙屋根」というそうだ。耐水シートの上にコールタールを塗り付けて、簡易的な屋根としていたそうだ。こんなところにも、石炭の副産物が使われる。ここがかつての炭鉱町だったことを今に伝える「建築用法」であろう。

「昔は本当に賑やかだったよ。あそこの丘の上にはグラウンドがあってね、その下のところには演芸場とか映画館があって。私の家はちょっと離れたところにあったけど、そこに住む友達も多かったから、いやあ、本当にいろんなところで遊んだよ」

そんなことを、昔懐かしそうに語る馬目区長。遠くを見つめる視線の奥には、きっと往時の風景が広がっていたのだろう。とても懐かしそうに、そして、その記憶を「とてもよいもの」として思い起こされているように感じた。ふるさとは遠きに在りて思うもの、というけれども、その「遠き」とは、地理的な遠さだけでなく時間的な遠さでもあるのだろうと、区長の優しげな瞳が語っておられた。

常磐炭鉱跡でよく見られる炭住の「紙屋根」。

この長屋に、炭鉱で働く人たちが大勢暮らしていた。

煉瓦を積んでつくられた何か。これが何かは分からない。

区長に連れられて白水小学校へ向かう。裏手から校庭に向かい、そこから校舎を見上げると、思わず息を飲むような絶景が広がっていた。「高倉山」である。高倉山の頂上には「ライオン岩」という、ライオンが臥しているような形をした巨岩があったそうだ。震災で崩れてしまい、その面影は薄くなくなってしまったが、それにしても、校舎のフォルムと、山の稜線のラインがとても似合う。この山に、この学校あり、という感じがして、炭鉱ってのは、まさに一山一家なのだなあと感慨深くなってしまった。

白水小学校と高倉山。頂上にライオン岩が見えるが、面影は、、、よく分からない。

学校の裏手では、今度は目を疑う光景を目にした。川にじゃぶじゃぶと車が入っていくのだ。というか、道路が普通に川のなかに続いている。なんだよここはチャオプラヤ川かよ、という雰囲気でもあるが、いやあ本当に野趣にあふれる光景である。実際に、どこぞのおっちゃんが、この川で車を洗っておられた。

どう見ても川に、なぜか車が。

あり得ないところを走行する白い車を撮影した、通常あり得ない絵づら。

美しい白水川と、それに架かる木造の橋。昭和感。

ひととおり、花見山のある内郷高野町そばの山手方向を見せて頂いたあと、今度は道をもどって、阿弥陀堂方面に戻ってもらった。すると途中で区長から、「ここに短いトンネルがあるんだけど、どこにあるか分かる?」と質問。まったく分からなかったが、確かにここにトンネルがあった。川平に入るあの異界のトンネル「不動山トンネル」が長いトンネル。こちらが短いトンネル。石炭を綴駅(現在の内郷駅)に送るための引き込み線が引かれ、石炭を送り出すための貨物車が走っていたという。

「川平は常磐炭鉱全体のなかでも早くに開発されたところだから衰退するのも最初。小学校の高学年だったかな、いきなりゴソっと転校生が出てね。内郷の町のほうに移っていったんです。そういうことが起きるところなんだなって子供心に思ったなあ。エネルギーをつくる産業ってそういうことかもしれないね」

「でも、こうして今も暮らしがあるのだから、その暮らしは、少しでもいいものになったほうがいいでしょう。小さな地域だからこそ絆が必要。山の上のお宅にまで回覧板を回すのとかはね、ちょっと大変だけど、集会所の夜のつどいもね、もっとお互いが気にかけあうことができたらいなって、それで始めたんです」

昭和33年には770人を数えた白水小学校の生徒数は、その20年後の昭和53年には二桁の95人になり、現在は一桁にまで減っている。石炭を掘るという明確な役割を与えられた町。それはとても「仮設的」であった。そして今ようやく、その歴史が閉じられようとしているのかもしれない。しかしそこには、地域に生きる人たちが無くしちゃいけないものが、やっぱり残っている。

この写真のどこかに、短いトンネルの入り口があります。分かるかなぁ?

かつての炭鉱町の雰囲気を残すトンネル。こうしたひとつひとつが、まさに地域の財産であるのだろう。

青空に映える、高倉山の美しい稜線。

目の前の風景と、個人の物語と、歴史がぐるぐるとつながっていく。これは、大きなバスツアーじゃ味わえないことだ。もしこれを、区長ではなく、別の母ちゃんがガイドをしてくれたら、まったく別のものになっただろう。人の数だけ物語があって、人の数だけ行きたいところ、見てもらいたいところがある。観光って、そもそもそういうものじゃないか。そんなことを感じた。

そして、やっぱり川平は面白いところだと再確認した。

かつては賑わいを見せた地区。遠方からいろいろな人がやってきて、何かの事業(ここでは炭鉱)に打ち込み、そこにコミュニティができて、やがてそれが小さくなっていく。それは日本の縮図でもある。何百年も前から続く農村ではない。国のエネルギー産業という「時代の流れ」とともに歩んできた地域だ。

エネルギーと無縁である人などいない。この川平という地区によって、昭和という時代を生き抜いてきたことは確かなのだから。であるならば、私たちは、この地区の行く末を見守る必要がすこーしだけあるのではないだろうか。

歴史の役目を終えようという地域を前に、私たちは何を、どのように残すのか。コミュニティの「たたみかた」のようなものを、この場所で、私たちは考えることができる。「たたみかた」というと、いかにも「閉じる」と思いがちだけれどそうではない。

「たたむ」のは、次の人が使うためでもある。川平に何かを残すのか。川平の外に何を残すし、手渡すのか。人の老いや死について考えてきた「いごく」。地域の老いや死についてを考えることもまた、この「いごく」の役割なのかもしれないと、ふと思った。

川平地区の馬目行雄区長。優しげな立ち居振る舞いのなかに、ゆるぎのない知性の感じられる方でした。

馬目区長、実は、いわきを代表する「指揮者」でいらっしゃって、吹奏楽団「いわき吹奏楽団」の顧問でもいらっしゃる。いわきアリオスで、2月にはコンサートも予定している。こんなクソ田舎としか言いようのないところに、すんごい人がいる。これだから面白いんですよ川平って。

それに、いわきでもっとも早く石炭が見つかり、もっとも速く衰退する旧産炭地は、かつてもっともいわきで勢いのあった場所でもある。いわきを「潮目の地」とするならば、まさにこの川平は、その「へそ」にあたる場所なのではないだろうか。そこにはまだまだ伝えられていない面白いナニカが転がっているはずだ。

夜の「レイヴ」だけじゃない。炭鉱の歴史、そこに暮らす人たちの多様さ、個々の小さな物語、そして、そこに生きることを選択した人たちの経験を、私たちは学ばせてもらわないといけない。だから、この地区には、まだまだ長生きしてもらわないと困るのだ。

どうやら、またしばらく昼の川平を旅しなければならなそうです。区長、よろしくお願いします!


公開日:2017年12月21日