いごくフェス2018の振り返りレポート第2弾。今回は、いごくステージの後半、ロクディムによる即興演劇と、ケーシー高峰師匠の漫談を振り返っていく。
ロクディムは、いわき市出身のカタヨセヒロシ、奄美大島出身の渡猛の二人がリーダーを務める6人組の即興演劇集団。即興、つまり特定の脚本や台本に依拠せず、その時々の即興のやり取りによって劇を組み立てていくスタイルを取っている。まさに筋書きなきドラマ。
台本も脚本もなく、即興的に、その場で繰り広げられていくロクディムの演劇。(撮影:鈴木穣蔵)
観客から事前に収拾していた言葉を舞台上に撒き散らす。(撮影:鈴木穣蔵)
―誰でもない、でも誰かの言葉を紡ぎ出すロクディム
ロクディムのスタイルはこうだ。毎回、事前に観客にアンケートを取り、「今までいわれた言葉で一番印象に残っている言葉は?」とか、「今までいわれたことで一番うれしかった言葉は?」といった質問に記入してもらい、回収したその紙を舞台上に散らしたうえで、劇の途中途中でその紙を拾い上げ、紙に書かれた言葉を台詞として引用しながら劇を組み立てる。
劇そのものは場当たり的に繰り広げられるから、観客から集めた声が劇のシーンにドンピシャで合致するわけではない。恋人に扮する二人のメンバーがやり取りしているのに、これまでの人生を振り返るような、いかにもおじいちゃんが書いたであろう気の抜けた台詞が飛び出してきたりする。
それはそれで滑稽で充分面白い。男性が演じているのに女性の口調になったりすると、思わず声を出して笑ってしまう。だが、たまに、ごくたまに、そのシーンに使われるのを待っていたかのような台詞がドンピシャで入り、拍手が起きることがある。そのために書いた台詞では当然ないはずなのに。観客は、言葉を提供することで、すでに「演者」のほうに足を踏み出しているのだ。
台本がないから、舞台上の彼らはいつも「必死」である。思考と呼吸、会話が矢継ぎ早に繰り広げられる。(撮影:白圡亮次)
いごくでもインタビュー取材させてもらったNPO法人ままはーとの笠間代表を発見。(撮影:中村幸稚)
観客は、その「誰かの言葉」を固唾を飲んで見守り、そしてロクディムは「誰かの言葉」を、その誰かに代わって言葉に出す。誰の言葉かは分からないのに、誰かの言葉であることは分かる。ロクディムは、そんな「誰だか分からないが誰かの言葉」を、いわば「翻訳」するのだ。
例えば、実際に90歳のおじいちゃんがいて、「人生疲れたよ」と言ったとする。その言葉は、その90歳のおじいちゃんのものだ。しかしその言葉をロクディムの誰かが劇のなかでポツリと吐き出した途端、その言葉は特定の誰かの言葉ではなくなる。それなのに「誰かの言葉」であることは確かなのだ。誰かがアンケート用紙に記入していなければ、その台詞は出てこない。
誰でもないのだけれど誰かではある。特定の誰かではないからこそ、そこに想像の余白が生まれる。ある人はその言葉に自分の祖母を見るかもしれない。奥さんやお母さんを思い浮かべる人もいるかもしれない。ロクディムが読み上げる台詞は、見る人によって誰の言葉にもなり得るのだ。特定の誰かの声ではない、誰でもない誰かの声。だからこそ伝わってしまう。
ロクディムが演じている「誰か」は、もしかしたら自分自身かもしれない。(撮影:鈴木穣蔵)
失敗もすれ違いもすべてを許容していく。誰かが「噛んで」しまっても、それをネタとして拾ってしまえば失敗でなくなる。(撮影:白圡亮次)
ロクディムの最期の演目は、すでに亡くなった男性が、天使とともに自分の人生を振り返るというものだった。妻との出会い、結婚、子どもの誕生、そして成長と別れ。誰もが経過する人生の節目節目に、ロクディムは必死に言葉と動作を探し出して、劇を盛りつけていく。台本がないから彼らも必死だ。瞬間瞬間に全力で言葉を出し、体をめいっぱい動かしながら、物語を紡いでいくのだ。
いつの間にか、私たちはその一部になっていく。ロクディムが演じるのは、もはや架空の誰かではない。会場にいる1人ひとりの観客に同化していくのだ。演者も観客もない。ボーダーレスである。
だからロクディムの劇はいつだって見る人を感動させる。私たちが壇上に見ているのは、私たち自身であり、人生とはかくもドラマチックで、そして笑いに満ち、素晴らしいものなのだということを、いつの間にか感じることができるからかもしれない。
ロクディムは面白い。しかし、私たちの人生はもっと面白い。だから、この筋書きのないドラマのように一瞬一瞬を楽しんでいれば、それでいい。そういう理解でいいのではないか。ロクディムだって、たぶんそんなことを伝えたかったんじゃないかな。
もはや伝統芸能。人間国宝として登録されるべきではないかという師匠の漫談。(撮影:鈴木穣蔵)
―その存在自体が伝説、ケーシー師匠の鬼気迫る漫談
この日最後の演者が、ご存知ケーシー高峰師匠である。いわき在住。この数十年、日本の芸能界において常にトップランナーであり続けた漫談師である。しかし師匠、なんといごくフェスの2日前に脊柱管狭窄症の手術を行ったばかりだそうで、体調万全とはいえないなか、鬼気迫る迫真の漫談を繰り広げて下さった。
口を開けばシモの言葉が口をついて出てくる。脳の言語を司る部分が変容しているのかもしれない。股間をさすりながら「医者には八十代の身体だって言われてるけどココは二十代だ」とさりげなくアピールしたり、安定の乳首ネタからの「ピョンヤン※」も健在だ。猥談なのに「年の功」でなぜか和やかに聞こえるという、もはや師匠にしかできない人間国宝級の漫談。さすがである。
※乳首をピョンとさわると「いやん♡」と声が出る。これを医学ではピョンヤンというのだ、という師匠定番のネタである。
少し辛そうにしていたが、さすがの空間制圧能力。500人の観衆が舞台に集中した。(撮影:白圡亮次)
とにかく皆さんいい顔をして漫談を聞いていらっしゃった。(撮影:中村幸稚)
師匠のスタイルは、「医学的には」と断っておいて不謹慎な話やエロい話を展開するというもの。深刻な話が「笑い」を経由することによって、受け止めやすい話になってしまう。老い、病気、そして死。あまりに深刻に考えてしまっては「どうせ死ぬのだから無駄だ」と人はニヒリズムに陥ってしまう。それを超える術としての「笑い」なのだ。
そして、軽妙なエロトークのなかに、病気や健康に関する話が必ず出てくる。ここ数年は、師匠自身も病気をしている。だから、実体験を話すと観客との共感の度合いが高まる。自分の経験を率直に「あれは辛いねえ」なんて語りながら、老いと病気との共存を身をもって語っていく。観客が、少しずつ前のめりになっていく。
生きること、病気になったり老いたりすること、そしていずれ死んでいくこと。それは悲しいことではない。それがありのままの人間の姿だからだ。人生とは考え方、感じ方次第。その感じ方の「ヒント」や「てがかり」のようなものを、師匠は提示しているようにも見える。腰が辛そうで、少し熱っぽかったそうだが、それを隠さないのも逆によかったのではないか。
さすがに辛そうだったが、「今できる最高のパフォーマンス」を披露して下さった師匠。(撮影:白圡亮次)
人は老いるし、病気にもなるし、そしていずれは最期を迎える。いつまでも生きていくことができない有限のものだ。だが、限りがあるからこそ、制約や障害があるからこそ、そのなかでできるだけ楽しもうと思える。老いや病や死を意識してこそ人生は豊かになる。そういうことではないか。
師匠にもロクディムにも、そして表彰を受けた皆さんにもラッパーたちにも、川平の母ちゃんたちにも共通すること。それは、結局のところ、自分の今を受け入れて、そこから人生を楽しもうとする姿勢にほかならない。それは「いごくフェス」の理念そのものでもあるだろう。
この理念が通底するのは、ステージに上がった人たちだけではない。アリオス中劇場のステージ以外の部分。アリオス内の各企画も同じだ。それについては、また次回レポートしていく。しばらく暑苦しい記事が続きそうだが、どうか勘弁頂きたい。私も、あのいごくフェスの熱に浮かされている一人だ。しばらくこの熱病から逃れる術は見つからないだろう。
終幕時の会場からの拍手。皆さんが笑顔だった。(撮影:鈴木穣蔵)
文/小松理虔(いごく編集部)
写真/白圡亮次、鈴木穣蔵、中村幸稚
公開日:2018年02月07日