決して人ごとではない認知症。患者数は全国に600万人ほどいるとされる、その割合は、なんと高齢者の6人に1人。国の予想によれば、2025年には700万人、実に5人に1人くらいの割合に増えるとされている。ちなみに2050年には1000万人を超えるとも。大変ショッキングな予想である。
近い将来やってくる「高齢者の5人に1人が認知症」というのは、自分と配偶者の親を2人ずつカウントし、さらにどちらかの叔父を1人プラスした、その5人のうちの誰かしらが認知症になるという感じだろうか。家族の誰かしらがそうなる。とても身近な病気なのだ。
認知症は、いろいろな要因から脳細胞の働きが悪くなり、さまざまな障害が起こって、生活するうえで支障が出ている状態のことを指す。主な症状として知られるのが、認知機能障害(もの忘れなど)、もの盗られ妄想、徘徊など。認知症の親を介護する人たちの壮絶な介護体験がメディアで紹介されることも多い。その実態を「間接的に」知っているという人たちも多いだろう。
実際に、家族が認知症になったら、どのように支えればいいのだろうか。具体的に、どのようなトラブルが起き得るのか。そんなことを学んでもらいたいと、いわき市が主催して、認知症の講演会が行われた。ただの講演ではない。専門家の講演に加え、地元の高校生による「認知症演劇」を観劇しながら、認知症への対応を学ぼうというものだ。いごく編集部では、その講演会を取材した。
まず行われたのが、いわき市平、新田目病院の院長、菅野智行先生の講義である。先生はまず認知症の概況を説明したうえで、認知症の前の段階、「軽度認知障害」について時間を割いて解説した。この状態は、ほとんど自立して日常生活を送れるものの、確実に認知機能に異常があり、しかし認知症とまでは言えないため、気づくのが遅れ、アルツハイマー型認知症に移行してしまいがちだという。
自分の親や家族がどのような状態にあるのか。それを知るための鍵となるのが認知機能のチェックだ。物忘れが目立ったり、日付が曜日がわからなくなったり、道に迷うようになったり。あるいは同じ献立が続いたり、お釣りの計算ができなくなったり。このような認知症の「疑い」を感じたら、かかりつけ医にまず相談して欲しいと菅野先生は強調する。
しかし「認知機能の障害」と言っても、本当に認知症なのか、ただ単に歳をとったからなのか、シロウトにはよくわからない。もしかしたら認知症かもしれないのに、家族が「あああ、母ちゃん年取って物忘れ多くなったな」と判断してしまったら、認知症を見落とすことも多いということだ。
菅野先生によれば、老化による物忘れはヒント与えらえると思い出せたり、体験自体は覚えていて、その「一部」を忘れてしまうそうだ。教えてあげると「そうだそうだ」と気づくことができる。しかし、認知症による物忘れは、体験自体、例えば食事そのものを忘れてしまったり、ヒントを与えられても思い出すことができないのだという。
老化による物忘れは、記憶には残っているので後から思い出すことができる。しかし、認知症の場合は、記憶そのものがストンと落ちてしまうので思い出すことができないのだ。この違いを覚えておくと、自分の親がいざそうなりかけた時、主治医に相談するタイミングが早まる。これからの時代、家族として必須のコミュニケーションスキルになるかもしれない。
それからもう一つ。菅野先生が強調していたのは、生活習慣や生活環境の悪化が認知症に結びつくということだ。生活習慣病を得ていたり、運動の習慣がなかったり、野菜を摂らない、人付き合いがない、頭を使う習慣がないなど、生活習慣や環境の乱れが、認知症の危険因子になり得るのだという。認知症とは、その意味で「暮らしの問題」だと言えるかもしれない。
さらに、認知症は周囲との関わりのなかで発見され、サポートされるという点も重要だ。地域社会とつながっていればこそ、日々コミュニケーションが生まれ、普段使わないような頭を使う機会も増える。仮に認知症自体を防ぎきれなくとも、早期発見や、症状の悪化スピードを遅らせることにもなる。その意味で、認知症とは「社会の問題」と言えるかもしれない。
つまり、大事なのは、暮らしをより良いものにし、地域社会との繋がりをゼロにしないこと。菅野先生のお話は、大変個別的であり、細部の理解を促すような情報を織り交ぜつつも、「福祉」そのものの原点に帰っていくような大局的な見方も提示してくれた。「へえ、そうなのか」と「やっぱりそうだよなあ」。その両方が菅野先生の講義から感じられた。
—高校生が演じる「認知症演劇」
講演の後に行われたのが、いわき総合高校演劇部の皆さんによる認知症演劇である。認知症に起こりやすいいくつかの場面を設定し、「悪い対応」と「良い対応」の2パターンを短く演じることで、認知症のより良い対応を知ってもらうという趣向だ。
例えば、おばあちゃんが食事をしたことを忘れて家族に悪態をつくとか、買い物ではいつも1万円札ばかり出してしまうとか、毎日生卵を買ってしまうとか、保険証をちょくちょくなくするとか。そこでどう対応すれば良いのかを、高校生たちが演じて見せてくれた。
短い劇が終わると、劇を一時的に中断し、実際に福祉に関わるコメンテーターが、さらにこうすると良い、実際の介護の場面ではこうしている、というようなコメントを話してくれる。さっき見たばかりの場面なので、劇を思い出しつつ、家族を想像しながら学ぶことができるのだ。
一つ例を出そう。おばあちゃんが財布を無くす。そんな時「母ちゃんまた無くしたのか!」と怒るのではなく、「一緒に探そう」とまずは受け止めてあげること。そして財布が見つかった時も、「ここにあっぺ!」とハッキリ言わずに、財布を自分で見つけられるよう「戸棚の方を探してみたら?」と導いてあげる。そんな対応を、高校生たちが演じて見せてくれるのだ。
本番では、稽古にはなかった演出が入っていたり、細かな動きが修正されていたり、稽古の成果を存分に見せてくれた。キャストには入っていない生徒たちも観客席から拍手を送っていた。何より、演じることだけでなく「自分たちも主体的に福祉について学ぶ」という姿勢があった。演じる、観る、学ぶという立場が、ゆるやかに交差していく。
将来は言語聴覚士になるのが目標だという演劇部部長の市村まどかさんは、「演劇の前に講演があったことで、劇の設定にどんな意味があったのかを、より理解できました。演劇部としても、福祉を学ぶ立場としてもたくさん勉強になりました」と、今回の成果を語ってくれた。
市村さんに、なかでも何が一番学びになったかを聞くと、「認知症のおばあちゃんも不安を抱えていることを知れたこと」だという。おばあちゃんが一万円札でしかお買い物をしないという設定のパートで、コメンテーターの方がこんなことを言っていた。「お金の計算ができないのが不安だから、認知症であることを悟られたくないから、お買い物で1万円札しか出せないんです」と。
今回の劇は、認知症の外側にいる人が「どう対応すればいいか」の知識を学ぶことに主眼が置かれているようにも見える。しかし、具体的な対応ばかり気にしてしまうと、往々にして、認知症の内側にいる人の思いや不安が置いてけぼりにされてしまう。大事なのは、認知症になってしまった人の不安や思いを汲み取ったうえでどう対応するか、なのではないか。
財布が大事なものだと分かっているからこそ、戸棚の奥の方にしまって忘れてしまう。戦後間もない時期は卵なんて買えなかったからこそスーパーで卵ばかり買ってきてしまう。そんな風に、行動の裏側にある不安や思いに寄り添ってみると、認知症という「症状」ではなく、目の前の「人」に向き合うことができるようになる。
演劇という実際の現場から離れた表現であるからこそ、そして、高校生という認知症から遠く離れた存在だからこそ、現実を一旦離れ、ぐるりと遠回りするように想像力を働かせながら、福祉や介護を考えることができるということかもしれない。演劇には、やはり「想像力」や「思いやること」のスイッチが入る何かしらの力があるようだ。
そう考えると、他者になることができる演劇が福祉に果たすべき役割は、決して小さくない。実際、演劇の盛んないわき総合高校で福祉を学んだ生徒たちが、実際に福祉の現場でも活躍しているそうだ。その人の立場になってみること。その人の目線に立ってみること。演劇と福祉が重なりあうところにあるナニカ。今しばらく、その正体を追い続けてみる必要がありそうだ。
※「お話と演劇で認知症講演会」のダイジェストムービーをYouTubeにアップしました。ぜひリンク先の「いごくTV」で劇の当日の様子をご覧下さい。
公開日:2018年03月22日