なぜ、いわきのかあちゃんは「つゆ」を「つよ」と呼ぶのだろう。
今日は何人で来たの? そば、食べでぐんだっぺ?
ほら、できたよー。遠慮しねえで食べでぎなー
なんだっぺ、そばのつよ、遠慮しねえで、もっと入れでいいがんねぇー
つよあっけ? 足んねぐねえげ?
もったいねえがら、つよも全部飲みな
ちょっと、そごの冷蔵庫の上にあっから、つよ、足りないどぎは言いなよー
この日、いごく取材班は、好間の「北二区集会所」でご飯を頂いていた。月に1回開催される「つどい」の日。以前、いごくでも紹介したけれど、この集会所では、地区の母ちゃんたちがお勝手隊を結成して、自分たちよりも年齢が上のお姉さまがたに料理を振る舞うという活動を続けている。
料理にうるさい、というかプロ級の腕前を持つ母ちゃんがいるためか、いつも必要以上に本格的なメニューを作っていて、前回は、カレーを2キロほど食べさせら、、、いや、大盛りのカレーを振る舞って頂いた。今回は、手打ちそばである。
なんと、市内の蕎麦屋さんの職人にお願いして打ってもらっている。つどいの場とは、実はグルメの場なのだ、少なくとも、この好間北二区では。
そばを食い始める。そして、母ちゃんたちはつよをちゃんと入れろ、遠慮すんなと語りかけてくる。いわき市民はとにかくつよが好きな民族だ。ラーメン屋のつよは、多くの店でひったひた。ちょっとしょっぱめのつよを遠慮なく頂くのが流儀である。
つゆではない。お・つ・よ。
「つよ」という言葉を使うのは、母ちゃんと相場が決まっている。うちの父は、ラーメンは「スープ」だし、そばは「つゆ」。けれど母ちゃんはラーメンもそばもうどんも全部「つよ」。つまり「つよ」は、ぼくにとっては母親の象徴なのである。
つどいの場の、まだ3回くらいしか会ったことのない母ちゃんの口から出てきた「つよ」。それは、人と人の距離を縮めるには十分すぎる、なんというか、魔法のような言葉だ。思わず、いごくチームのメンバーと顔を見せ合って、「つよ、出た!」、「なんで母ちゃんって『つよ』なんだ!」という話題でひとしきり盛り上がった。
つよは、いつだって家庭にある。
セミの声が聞こえるような暑い夏の土曜日に、「もう飽きたっつーの!」「なんで年寄りはそんなにそうめんばっか食ってんだ!」とブチ切れながら食べた冷たいそうめん。テスト前の一夜漬けの勉強の後、「うでだ(茹でた)がら食べな」と部屋まで持ってきてくれた、シンプルなそば(具は刻んだネギだけ)。下痢が続いて食欲が出ないときに、適当に冷凍庫に入ってたやつで作ってくれたうどん。
つよは、母の優しさに包まれている。そしていつも、少しだけ押し付けがましい。だけれど、その押し付けがましさこそ、母の愛というものなのだろう。そうめんも、そばも、うどんも、みな猛烈な懐かしさとともに思い出される。
そんな神妙な気持ちでそばをすする。好間の母ちゃんたちは、まだせっせと働きながら、適当に余り物をつまみ、噂話をしたり、昔の話をしてゲラゲラと笑っているのだった。
つよ。
うん。それでいい。こうでなくては。
ぼくの腹は大量のつよでタプタプしている。それなのに、ジャガイモの煮っ転がしを押し付けられる。そして、余ったそばがきもある。そばがきの器からは、うまそうな湯気が上がっている。そのつよは熱く、そして野菜の煮たような甘みが存分に感じられて、胃の中にストンとおさまった。
玄関から、風が優しく吹き込んでくる。ぼくは、ふーーーーっと息を吐いて、そして、うん、うん、とうなづいた。特段何かを考えたわけじゃない。過ごした時間が、何かとてもこの空間にふさわしいような気がして、なぜかとても深く納得できたのだった。
もう一度、玄関から涼しげな風が吹いてきた。なぜ母ちゃんたちは「つよ」と呼ぶのか。そんなことは、もうどうでもよくなって、ぼくはまた、うん、うん、とうなづき、撮影の仕事に戻った。
公開日:2018年07月04日