あの世もこの世も美しい

igoku Fes2018前夜祭レポート


 

2018年9月7日、8日、いわき市地域包括ケア推進課主催による生老病死のフェス「いごくフェス2018」が開催された。今回はなんと前夜祭と本公演合わせて2日間。極楽浄土をテーマに食ありライブあり、漫談あり落語あり、笑いあり涙あり、ワークショップあり入棺体験あり。内容てんこ盛り過ぎて1回では伝えきれないので、いごく編集部渾身のレポートを複数回に分けて掲載していく。今回は前夜祭!

 

会場の平中央公園はNYのセントラルパークの装い(撮影:鈴木穣蔵)

 

複数の飲食ブースが出店。食でイベントを盛り上げた(撮影:いごく編集部)

 

クラフトビールも登場。あちこちで「昼から乾杯」最高です(撮影:鈴木穣蔵)

 

好間北二区の母ちゃんたちも出店し名物「もつ炒め」などを完売。大盛況(撮影:鈴木穣蔵)

 

小名浜「あおいち」プロジェクトによるポーポー焼きも人気だった(撮影:いごく編集部)

 

前夜祭の会場は、いわきアリオス前の平中央公園。夕暮れ時である。芝生のうえに置かれた明かりもステージに開いた蓮の花も、公園のなかの大きな木に飾られた照明も、すべてがキラキラと輝いて見える。まるで「ニューヨークのセントラルパークかよ」って突っ込みたくなるくらいのおしゃれ空間。まさに「タイラセントラルパーク」の装い。

ライブを前に、まったりとした時を過ごす編集部、そして会場の皆さん。カレーを食べたり、揚げ物をつまんだり、さんまのポーポー焼きを頬張ったりして、ライブのスタートを待つ。いいもんだねえ。慣れ親しんだ公園がこんな風に姿を変えて、集まりそうもなかった人たちがこの場所に集い、個人もグループも、それぞれ思い思いに夕暮れ時の公園を満喫してらあ。

 

−父ちゃん母ちゃんが躍動

ほろ酔ってると、舞台上にぞろぞろと父ちゃん母ちゃんが集まってきた。んまつーポスの即興ダンスワークショップである。んまつーポスは、いわきアリオスでも何度もワークショップを行っている体育×芸術集団。アートの空間に体育を上演・展示するというパフォーマンスを行っている。この日は、父ちゃん母ちゃんにスポーツ選手の有名な瞬間やポーズを再現してもらい、それを舞台上に展示するという趣向である。

 

出演するのは、いわき在住65歳以上の元気なお父さん、お母さんたち(撮影:鈴木穣蔵)

 

その人が本来持っている溌剌さが爆発していた。出るほうも見るほうも元気になれる(撮影:いごく編集部)

 

いやあ、表情がいいったらありゃあしない。こういうパフォーマンスって表現力に長けたダンサーとかがやるものだと思っていたけれど、父ちゃん母ちゃんたちがいつもより輝いて、そして楽しんでいるように見えた。なんというか、普段は閉じ込められがちな「ハツラツとした何か」が思い切り表出されているのだ。それが「体育」のもつ根源的な楽しさや開放感なんだろう。んまつーポス、やるなあ。

 

−他力回向で極楽へ

んまつーポスが終わると、次に出てきたのが、なんだかイミフなヘルメットをかぶり、法衣を着た二人組ユニット、Tariki Echo。お経をサンプリングしたダブサウンドやダンスミュージックを「ブッダサウンド」と称し、全国の音楽イベントで旋風を巻き起こしているヤバい奴ら。

Tariki Echo。Echoと聞くと確かに音楽ユニットっぽいけれど、つまり「他力回向(たりきえこう)」。自分の力で善行功徳を積んで悟りを開くのではなく全ては他力。つまり阿弥陀仏の力、本願によって悟りが開かれるのであるという浄土真宗の教えである。

なるほど、コールアンドレスポンスは「なんまんだぶ」。リズムに乗って反応しているようで結果として念仏を唱えてしまっているのだ。ちなみにステージに華をそえるスクリーン映像は、法要会場で仏教の世界観をプロジェクションマッピングするというブッ飛んだ取組みをしている町屋光明寺から提供頂いた。まさに仏のコラボレーション。

 

中毒性の高いブッダサウンドで会場を魅了(撮影:鈴木穣蔵)

 

煽りは「なんまんだぶ」。「だぶ」と「DUB(ダブ)」がかかってる。口に出せば勝手に功徳が積めてしまうのだ(撮影:鈴木穣蔵)

 

子どもたちも知らないうちに念仏を唱えてしまうというカオス空間(撮影:鈴木穣蔵)

 

中毒性の高いリズムに体を揺らしながら「南無阿弥陀仏」と唱えると、なぜか体がふんわりと浮き上がったように感じられる。あれ、あれれ? ぼくたち、極楽浄土に、いるーーーーーっつ? ってな雰囲気。本当は大トリでもよかったかもしれないけれど、Tariki Echoが二番目にきちゃう濃すぎるラインナップ。まだまだ続くよいごくフェス!

 

−野性味溢れる「じゃんがら」盆踊り

続いては、じゃんがら。通常のじゃんがらではなく、じゃんがら「盆踊りver」。輪踊りの部分が長くなっていて、一般の観衆もその輪に加われるようになっている。今でこそ念仏踊り、お盆の時期の慰霊の伝統芸能として知られているけれど、実は江戸時代の末期に「禁止令」が出るほど、昔のじゃんがらはなんでもありの乱痴気騒ぎだったと言われている。

 

公園の芝生の上で、輪踊りを披露する泉崎青年会のみなさん(撮影:鈴木穣蔵)

 

Tariki Echoから続く南無阿弥陀仏空間。彼岸と此岸が交錯する(撮影:いごく編集部)

 

お盆の時期にしんみりと故人を思う伝統の踊りとしてのじゃんがらも素晴らしい。けれど、こうしてライブイベントの熱狂に身を投じつつ、愉悦の先にあるじゃんがらもまた良い。そしてその踊りに身を投じ、鉦や太鼓の音と交わっていくことで、己の体かどうか定かではない「境目」を感じる。そんな原初的なじゃんがらを感じることができ、より一層、フェスの「極楽浄土感」が膨らんだ。

 

−大乗とグルーヴ

続いてステージ上に登場したのは、いわきの即興パフォーマンス集団、十中八九によるステージ。いわきの歴史や文化を歌詞に取り入れ、何人ものパフォーマーが参加し、楽器を打ち鳴らすこの即興集団の面白さは、集団になることで、何か別のなんとも言えない存在が立ち上がることだ。これまで何度か味わったが、こういうカオスな場所だからこそ、彼らは光り輝く。

 

バラバラなようでバラバラではない。渾然一体となったパフォーマンス(撮影:鈴木穣蔵)

 

踊り手たちも水を得た魚のように舞い始める(撮影:鈴木穣蔵)

 

心地よいライブ空間。観客たちが思い思いに身を委ねていた(撮影:いごく編集部)

 

それぞれのパートを担当しているのに、集団が生き物のように立ち現れる瞬間がある。個別の音なのに、一つの大きな音の一部になっていて、観衆もまた場の一部になっている。一つでありすべてでもある。無であり1であり2であり無限でもある。そんなグルーヴ。いつの間にか、そこに大きな乗り物があるかのように思えてしまう。個々人の表現に身を委ねる即興であるからこそ、奇跡的な一体感。これもまた極楽浄土、仏教的なパフォーマンスと言えるのかもしれない。

 

−あるがままの、いい時間

大トリの蔡忠浩。彼が歌うのは、人が生きることの喜びそのもの、と言っていいかもしれない。日常の些細な心の揺れや、誰かを好きになることや、寂しいと思ってしまう心、それらをすべてを肯定し、あなたの、あるがままを受け止めようという優しさ。蔡忠浩の歌には、それがある。

 

いわきとゆかりの深い蔡忠浩によるソロライブ。極上の時間(撮影:いごく編集部)

 

途中、2曲目だったか、ギターにつながれたケーブルの調子が悪く、スピーカーからギターの音が出てこないというハプニングが起きた。すると、途端に会場の人たちが拍手でリズムをつなぎ、そこに蔡忠浩が声を乗せて1曲歌いきったのだ。

自分だけではない。誰かわからないけれど、そこにいるほかの誰かと拍手をして、みんなでリズムを作って声を支える。あの瞬間、本当に大きな乗り物が会場に出現した気がした。その乗り物に乗って私たちは一緒に音楽を、今を、そして昔を旅する。あの瞬間の不思議な高揚感を、あの場にいた全員が覚えていることだろう。

 

蔡忠浩の一挙手一投足に、観衆の視線が注がれる(撮影:鈴木穣蔵)

 

そして、満を持していわきで歌う「三月のプリズム」。震災を歌った楽曲である。ミュージックビデオもいわきの永崎で作られた。だからこの歌は、いわきで歌われなければならなかった。完成してから数年の時を経て、プリズムが輝きだす。まぶたに飛び込んでくるのはいわきの海辺の光ではなかったけれど、ステージや、公園の木々から溢れ出る電球の光は、カクテルのように様々な無数の色を持って、私たちのまぶたから体の中に飛び込んでくる。

悲しみにドッコイセェと土を盛り、千年の一瞬を狂った渚にまっさらなあかりをつけよう」

その歌は何より弔いの言葉であり、慰霊であり、震災後を生きる私たちの全肯定であった。うっすらと涙を流しながら歌詞を口ずさむ人。ステージの周りを走る子どもたち。じんわりと真っ暗な空を見上げる人。大切な人の手を握る人。そのステージは生きることを全肯定する。浄土の光が現世を照らすように。

 

会場の美術は、福島市在住の作家、小池晶子によるもの。幻想的な光が会場を包み込んでいた(撮影:いごく編集部)

 

会場に設置された撮影ブース「涅槃スタグラム」。思い出の1枚をパシャリ(撮影:鈴木穣蔵)

 

まったりと、そしてじっくりと、それぞれのパフォーマンスを味わう(撮影:鈴木穣蔵)

 

会場のあちこちに蓮の花が咲き乱れていた(撮影:鈴木穣蔵)

 

蔡忠浩を拍手で送り出し、ビールを飲もうとコップを握ると、いつの間にか飲み干していたのに気づいて急いでお店に走る。ステージから離れたその場所で、ステージの光を遠くに見ながら、ふうっと息をつきながらビールを飲む。その苦味が心地よく覚醒をもたらす。ここが極楽ではなく、私たちの暮らしの延長線にある「平中央公園」であることを思い出させてくれる。

なんだかよくわからないグルーヴに包まれて、たくさんの人たちが、大切なだれかのことを思ったに違いない。ここにいる人だけでなく、きっとここにはいない人たちとも、とにかくいい時間を共有したのだ。いい時間は、ひとときの間、私たちを別の世界へと連れて行ってくれる。そして、もう一度この現実へ戻ってきた時の見え方を変えてくれる。

ライブを通じて、ここではないところに行ってしまう。「いごくフェス」とは、まさにそのための乗り物のようなフェスだった。と同時に、見え方が変わるという意味では「メガネ」を付け替える行為のようにも思えた。現実を違った角度から見るためのメガネ。そのメガネに付け替えると、不思議と平のまちが美しく見えたり、もう少し、隣にいる人と過ごす時間を大切にしようとか思ったり。

蔡忠浩が最後に歌った歌を思い出した。what a wonderful world。仏も、福祉も、医療も、音楽も芸術も、どうせいずれは誰もが死んでしまう辛い人生を、よりよく生きようとする私たちのためにある。美しいのは極楽浄土だけではない。この世もまた、私たちの見え方次第なのだ。

だから、たまにこうしてメガネを外して、別のメガネで世の中を見てみよう。きっとどこからか、what a wonderful worldのメロディが聞こえてくるはずだ。

 

【会場美術協力】いわき万本桜プロジェクト、正木屋材木店、生木場ファーム、幡ヶ谷再生大学、特定非営利活動法人ソーシャルデザインワークス、ビア博いわき、マルタケ宮本商店、プロジェクトFUKUSHIMA!、いわき道具センター

 


公開日:2018年10月02日