昨年末に行われた「いごくツアー」のレポート後半をお送りします。
福島県のホープツーリズムに参加した埼玉県立不動岡高校の生徒たち。福島の復興を学びに来たはずのに、なぜか初日と二日目午前は、いわき市のいごくの取り組みを体験することに。高校生たちの体験は前編にまとめてあるので、詳しくはそちらをご覧頂きつつ、今回は後半戦。二日目以降の旅について紹介しつつ、旅全体を振り返っていきます。
【いごくツアーの全コース】1日目〜2日目午前(レポート前編)
1、中央台公民館で入棺体験 feat. みよの杜、霜村真康(from菩提院)
2、きざみ食&ペースト食弁当 feat. 加藤すみ子
3、中山元二先生レジェンド講義 in かしま荘 からの施設内見学
4、介護体験 in サニーポート小名浜
5、好間北二区でいわき最強ディナー with 北二区のばばあ
6、二日目「いごくツアー振り返りワークショップ」 in Jヴィレッジ
【いごくツアー後のホープツーリズムのコース】2日目午後〜3日目(レポート後編)
7、富岡町さくらモールとみおかでの昼食 feat. 浜鶏
8、バスに乗り、国道6号沿いの帰還困難区域を視察
9、南相馬市立総合病院にて、院長の及川友好先生の講話
10、小高へ移動し、おだかぷらっとほーむの廣畑裕子さんの講話
11、双葉屋旅館にて振り返り(ここで2日目が終了)
12、国道114号線を福島市のコラッセふくしまへ移動
13、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターの天野和彦先生の講話
14、避難所運営シミュレーション教材「さすけなぶる」を体験
15、3日間の総まとめ振り返りワークショップ
旅程を見ると分かるように、3日間のツアーは大きく2つのコースに分けられています。初日と2日目は、まさに「いごくツアー」ですが、それ以降は、震災と福島を考えるためのコース。前半を「日常の暮らしのなかでの命を考えるツアー」とすれば、後半は「非日常、災害時の命を考えるツアー」になっている、といえばわかりやすいでしょうか。
普通に考えれば、いわきでも震災絡みの場所を訪れたほうがよかったのかもしれません。でも、先生たちはそうは考えなかった。敢えて前半に不真面目なまでに「体験」を優先させ、埼玉に暮らす生徒たちが暮らしの延長線上に考えられる「日常の命」を考えてもらう。そうすることで、生徒たちの暮らし、命といった要素が徐々に福島に接続され、防災やコミュニティというキーワードを経由しつつ、自分の地域に戻ってくることができるはず。
初日、徹底して心ゆくまでいわきの「いごき」を体験した生徒たち。一晩じっくりを休んで、2日目は振り返りから。朝食後、Jヴィレッジの美しい芝生が視界に入るホールに集まり、いごく編集長の猪狩僚と、編集部のわたくし、小松も同席しての車座トークになりました。
生徒たち、まずはお互いに初日の感想を述べ合い、いくつかのキーワードを浮かび上がらせ、今度はそのキーワードについてさらに考えを深めます。「なんだかわからないけどとにかくすごかった」という感動を、じっくりと言葉に変換していく作業です。模造紙を見ると、彼らが刺激を受けたであろうキーワードが続々と書き連ねられていました。
そしてその上で、いごくらしさとは何か。不謹慎なまでに楽しんでみる意義はどこにあるのか。どんな立場で、どんな伝え方をしているのか。様々に意見を出し、対話を進めていきました。
その後、南相馬市をめぐり、南相馬総合病院の及川院長、小高の廣畑裕子さんの二人から、震災時の極限状態にあった命の話を聞きました。医療に関わる人間としての責任感。すべてが奪われた町から始まるコミュニティの再生。それを最前線で担ってきた人の言葉の熱量を、生徒たちは敏感に感じ取っていきます。
最終日は、その熱が冷めないうちに福島大学の天野先生の講話を聞き、もう一度最後に、この旅の意味はどこにあったのかというファイナルアンサーを探しました。3日間、体験と対話、そして振り返りの連続。生徒たちは、心も体も頭も総動員しながら内なる言葉と向き合いました。
最終日の最後の問いは、「今、福島を旅する意味とは」というものでした。ここでようやく、前半の「いごく」と、後半の「被災地」が少しずつ結びついてきます。ひとりで生きられる命はない。人間は社会的な存在です。だからこそいわきでは様々な「いごき」が生まれています。震災と原発事故はそうした「いごき」までも奪ってしまった出来事でしたが、それを取り戻すための奮闘も始まっています。
平時と災害時。日常と非日常。自分と他者。生と死。地域とは。つながりとは。人はいかに生き、いかに死ぬべきか。そんなことは普段は問わなくていいことです。けれど、命がむき出しになったこの地では、思わずそれを問うてしまう。高校生たちも、大人たちも、問いを突きつけられる。そこでは原初的な、そして等身大の「哲学」が生まれているのでした。
昨年に引き続いて参加してくれた生徒のひとりは、「福島は、エネルギー産業によって首都圏の発展を支えてきたバックヤードで、だからこそ、普段の生活で埋もれてしまいがちな、いかに生きるか、いかに死ぬか、社会とは、つながりとは? という、暮らしの根っこにある問いを考えさせてくれるんじゃないか」という趣旨の話をしてくれました。(そこまで考えてくれてるって、すごくない?)
生きることや死ぬこと、老いること。普段の生活ではおおよそ考えないであろう、しかし私たちを根底から支えているもの。それは「哲学」であったり、エネルギーであったり、コメや野菜や、工業製品であったりする。普段はきらびやかなものの背後に隠れて見えないけれど、人生に絶対に欠かすことのできない。それが福島にはあるのでしょう。とても希望的なことだと思います。
実は、高校生たちを受け入れたいわき市内の介護施設の人たちが、皆そろって「高校生たちのツアーを受け入れて私たちも学びになった。またこういうことをしてみたい」というリアクションを返してくれたそうです。分かる気がします。なんの専門性もない彼らの言葉が、いや、だからこそ、巡り巡って凝り固まった現場を解きほぐしていく。実際には、私たちのほうが学ばせてもらったのです。
教えていたつもりが学ばされていた。福島を旅したのに、福島のことではなくむしろ地元のことを考えてしまった。福島を学んだのに、なぜか両親の顔が思い浮かんだ。かつて「悲劇」のあった場所なのに、なぜか生きる気力が湧いてきた。死や老い、介護を学んだのに、なぜか心の底から楽しい気持ちになってしまった。今回の学びには、あちこちに「想定外」がありました。
もっと計画的に、しっかりとスケジューリングされた旅程のほうがよかったのかもしれません。しかし、こうなるだろうと思っていたものを飛び越えて、ひょんなところに着地してしまう。それこそ旅の醍醐味でもあるし、正しい道筋ではなく「エラー」のほうこそなぜか彩りを与えてしまうというのは、人生だってきっと同じだと思うのです。
そのような「エラー」を目の当たりにした時、自分の言葉ではなかなか説明がつかなくなった時、そこに哲学の種が生まれます。哲学は、何も歴史の本に名を残すような偉人たちのためにあるわけではない。この世の中を生きる私たちのために存在しているはずです。
何も知らず楽しんで飛び込んで、なんじゃこりゃ、どうしたらいいんだっぺと悩んで、それでもその時々の言葉で考えて、ちゃんと言葉を書き出してみる。
ああ、それって「いごく」の目指してるものと同じじゃん、なんてことを、高校生を通じて再確認する。だからぼくも、今回の旅で彼らから多くを学んだひとりです。哲学が生まれる瞬間を目の当たりにできて、とても幸せでした。勇気をもらいました。不動岡高校の皆さん、先生方、いわきでいごきまくっている皆さん、本当にありがとうございました。
文と写真:小松 理虔(いごく編集部)
公開日:2019年01月08日