笑いの種を受け取った者として

追悼:ケーシー高峰師匠


 

今朝ほど、信じられない、いや、どこかでこうなるかもしれないと思っていたニュースが飛び込んできました。日本が誇るエロ漫談家、タレントのケーシー高峰師匠、死去のニュースでした。昨年9月の「いごくフェス」では、体調不良を押しての出演ながらも、できうる限りの最高のパフォーマンスを見せてくれ、まだまだいわきで芸を見せてもらいたいな、そろそろ次のいごくフェスのオファーに行かねば、と思っていた矢先の訃報でした。本当にショックです。

 

2回目のいごくフェスでの師匠。洒脱でエロ。そして知的。最高のパフォーマンスでした(撮影:鈴木穣蔵)

 

ケーシー師匠には、表彰式のプレゼンターとして、そして本公演で芸を披露して頂くタレントとして、過去2回開催した「いごくフェス」にご出演頂いていました。初めてお会いしてオファーした時には、「これは面白そうな企画だね」と出演を快諾下さいました。とにかくサービス精神旺盛で、ファミレスで打ち合わせをしても、ご自宅で打ち合わせをしても、「コーヒー飲む?」「タバコ吸う?」「なんか注文して、食べなよ?」と、気遣いの人でした。

打ち合わせといっても、ウケ狙いの小噺やギャグ、ダジャレばかりでほとんど打ち合わせになりませんでした。私たちに対するサービス、気遣いだったのか、もともとふざけていた人なのかはわかりません。ただ、ケーシー師匠と過ごす時間のなかには、常に「笑い」がありました。

 

初対面の挨拶はご自宅でした。家に通されると、家の中から庭を軽く案内されてこんな小噺。

「あそこに小さな池があるでしょう。あそこで、金魚とかを飼ってたの。ある日、鳥が来て、みんな食べちゃったんだよ。また、買ってきて放しても、また食べちゃう」

「人に訊いたら、それは多分、カモじゃないかって言うんだよ。で、金魚とかより大きいドジョウも一緒に飼うと食べられないよって言うから、ドジョウも入れたんだよ。そしたら、そのドジョウまで食べられちゃったの。すごいねぇ、あの食欲」

「昨日だか一昨日だか、暑かったでしょ。散歩から帰ってきて、汗流すのに、シャワー浴びたんだけど、暑いから、浴室の窓開けてたんだよね。そしたら、カモが浴室に入ってきて、オレのアソコ咥えたんだよ」

「これがホントのフェラガモってね!」

 

1回目のいごくフェスの様子。この時から脊柱管狭窄症がツラいということで、椅子に座っての漫談でした(撮影:白圡亮次)

 

今思えば、やはりあれもサービスだったのだと思います。誰かと会うときは、常に「ケーシー高峰」であろうとしたのかもしれません。繰り返しになりますが、とにかく気遣い、サービスの人でした。

2回目のいごくフェスのときは、奥様同伴での打ち合わせでした。呼吸のために鼻にチューブを付けた状態だったので正直難しいかと思いましたが、「こんな状態でいいなら、出るよ」とおっしゃってくれました。「でも、呼吸が苦しいから、リハなし。本番前に会場入りして、舞台も15分ぐらいでお願いします」という条件付き。そして、あの2回目のいごくフェスの奇跡の漫談につながります。

ケーシー師匠の最後(かもしれない)の漫談。芸人の生き様を見ました(撮影:中村幸稚)

 

2回目のいごくフェス。鼻にチューブを付けた状態でのご出演でした。タレントとして華々しい実績を残した第一人者であるにも関わらず、今できる精一杯の芸を披露するケーシー師匠。芸人の生き様をまざまざと見せつけられ、私たちも、あの場にいたすべての人も、強烈な何かを受け取りました。

新聞記事によれば、昨年9月以降の仕事はすべてキャンセルしていたそうです。2回目のいごくフェスは昨年9月でしたから、もしかしたら、あの漫談がケーシー師匠の最後の漫談だったかもしれない。そしてその漫談の瞬間に私たちは立ち会っていました。舞台の幕が上がる直前まで、かなり辛そうなご様子でした。その模様が、この映像のなかに残されています。

 

再生すると、ケーシー高峰師匠の出番から映像が始まります。

 

もはや人間国宝といって良かったエロ漫談。本当に最高でした。ケーシー師匠の笑いには、いつだって愛とエロがありました。そして、そこはかとなく健康への気づかいがありました。会場の人たちを笑い者にしてネタにしたって、皆さんに健康にね、お元気でねって。医者の家系に生まれた人間としての矜持のようなものが、そこにはあったのかもしれません。

私たち「いごく」は、いわき市に暮らす方たちが、自分が選んだその場所で、できるだけ最期の瞬間まで過ごすことができるような地域をつくることをミッションとしています。みんなで運動したり食に気をつけたり、それでも「いつかは」と最期を見据えながら、だからこそ冗談言い合って、たまには下ネタで笑いながら、大好きな町の空や海や山を見て過ごせる。そんな地域を。

ケーシー師匠は、自ら望まれていわきに移住され、震災や原発事故を共に経験し、私たちを笑わせてくれ、勇気づけてくれ、健康の大切さを伝えてくれました。限界まで舞台に上がり、私たちを鼓舞して下さいました。あなたは、私たち「いごく」の精神を誰よりも体現する方でした。だからもう少しだけ、一緒にいたかった。もっと一緒に、笑いたかった。

けれどケーシー師匠、きっとまたあっちで会えるはずだし、あっちでも多くの人を笑わせてくれるでしょう。脊柱管狭窄症で辛かった腰だってバッチリ最高の状態に戻っちゃって、あんなことやこんなことをやらかすに違いない。ってかまだ四十九日になっていないから、そのあたりをウロついているかもしれないし、この文章も見てるかもしれませんがとにかく、あっちにいる私たちの先祖も楽しみにしてると思うんで、漫談、やり続けて下さい。

ケーシー高峰師匠、本当にありがとうございました。あなたから笑いの種を受け取った者として、これからも、笑いとエロと健康と愛を、このいわきで育てていきます。愛と敬意を最大に込めて、グラッチェ。

 

いごく編集部

 

 

門脇 貞夫 Sadao KADOWAKI

1934年山形県最上町生まれ。日本で最初の「医事漫談」を始め、コメディアンとして全国的な人気に。1980年代後半、福島県いわき市に移住。いわき市観光使節(サンシャイン大使)。自宅では在宅時にそれを示す手製の旗を掲げている。2017年、いわき市市政功労者表彰受賞。コメディアン。芸名はケーシー高峰。<撮影:丹 英直(2017年)>

 

 


公開日:2019年04月10日