揮発性の高い会話をする人 

文:岡 映里


 

文:岡 映里

医事漫談家のケーシー高峰さんが平成31年4月8日にお亡くなりになりました。享年85。

私とケーシーさんは、2011年の震災をきっかけに出会いました。2013年からは週刊大衆の連載『グラッチェ哉人生』の構成担当として公私にわたってお世話になっていた私に、追悼文を書いてみないかと「いごく」編集部の小松さんが声をかけてくださいました。

願ってもない機会ですし、私が見たケーシーさんについて書いてみたいと思いました。ですが、この4年間について振り返ると、驚くほどきれいに「エピソードにできるイイ話が残っていない」ことに気が付きました。

たいてい80代で死ぬような人は、若輩の者に「人生訓」めいたものを残したりする場合が多いような気がするので、ケーシーさんの場合もそんな発言を記憶の中から引っ張り出してきて重石に使えば、追悼文は完成するだろうと思いました。でも、よく思い返してみても、それがないのです。

双葉社からケーシーさんのネタ全集を兼ねた自伝を出そうという話も出ていたのですが、自伝を構成するために、これまでの人生について何度聞いても、ある程度の年齢がいった成功者が語りたがる「苦労話」が出てこないのです。

「そうだねえ、日大医学部から、親に内緒で日芸に移って、勘当されちゃってね……」くらいしかないのです。

もちろん、私生活での様々なスキャンダルや、絶頂期後の不遇時代、さらにはご自身の舌を3分の1も切除した舌癌の闘病など、芸能ニュースをにぎわせたことがあったことぐらいは、孫ほど年の離れた私でも、数年間にわたる連載の構成をする過程で調べたりして知っているのですが、それらの出来事についての感想を聞いても「あー、あったあった。ねー。今はいい思い出よ」と言って終わりになってしまうので、話が深まっていかないのです。

「もうちょっと苦労話的なことをしてもらわないと本にならないんですよ」と私がこぼすと、「苦労話ってさあ。するのが疲れるんだよ、この年になるとね」。

最近の芸人さんは人生とか政治を語る人も多いようですが、ケーシーさんには一切それがありませんでした。ついでに言うと芸談もお好きではない様子でした。自分の芸についても語りませんでしたが、ほかの芸人さんについてどう思うか、という質問についても、「がんばってるよねえ」というだけで、唯一の例外の落語家・立川談志さんのある一件を除いて、私が聞く限り一切語らなかったと記憶しています。

 

ケーシー師匠と岡さん(キャプション:いごく編集部)

 

私はケーシーさんとは2011年4月から2015年末まで毎月お会いしていました。2013年からは週刊大衆の連載がスタートしたので、お仕事もご一緒させていただく幸運に恵まれました。いわき市泉のご自宅の広々したリビングのテーブルに二人で向かい合い、奥様の入れてくださるコーヒーを何杯もお替りしながら、昭和30年代から使いまわしているネタ帳をめくり、連載の体裁に会うように今風にネタをアレンジすることを2時間近くかけてやります。これが4回分の週刊誌連載の素になるのです。

ケーシーさんのご自宅は、いわき市泉の高台に約30年前に造成された住宅団地を二区画分購入して建てた大豪邸で、在宅時は自宅の庭に大きなイタリアの国旗が掲げていました。「なぜイタリアの国旗なんですか?」と聞くと「イタリー、イナカッタリーするからね。いるときはイタリーなんだ」と。

大邸宅にお住まいでしたが、当時はもう30畳ほどのリビング以外は使っていませんでした。テレビの前に布団を二組敷き、そこでご夫婦でおやすみになっていました。家が広すぎて持て余しているご様子でした。

一緒に4回分のネタを考えたあとは、ケーシーさんお気に入りの『いわきで一番下品なスナック』に行き、ご自身の持ち歌『そりゃないぜ セニョリータ』を歌い、ほかのお客さんが歌っている時はスナックに常備してある木魚(お坊さんが叩くやつです)を持ち出しては「なんまいだーなんまいだー」と歌に合わせて木魚をポクポクたたきまくっては楽しんでおられました。

2013年のある時、ケーシーさんのご自宅に向かう数日前に電話が来たことがありました。

「麻美ちゃん(注・岡さんの本名)、今度麻美ちゃん来るときは、錠さんも来るから。連載の構成会議は錠さんが泊まるオーシャンホテルのレストランにしよう」

錠さんとは俳優の宍戸錠さんのことでした。錠さんの自宅が火災で全焼し、思い出の品が全部焼けてしまったというニュースの直後のことでした。ふたりとも昭和9年生まれで日大でも同級生だった宍戸錠さんとケーシーさんは、学生時代からずっと親しい仲だったそうです。

夜はやはり『いわきで一番下品なスナック』に宍戸さんを連れていきました。錠さんはスーツ姿でキメてはいたのですが、足取りは重く、火災が起きたことで少し落ち込んでいるご様子でした。

しかし、スナックに入って、ママが宍戸錠さんを見るなり、錠さんの股間を手でもみながら「お兄さん……! イイもの持ってる! え? このひと俳優さん? AVの俳優さんじゃないの? AVでしょ! だってこんなに元気だもん」と甲高い声を上げ、それを聞いて錠さんは爆笑しました。その錠さんを見てその場にいた皆も爆笑しました。そこからは怒涛のカラオケ大会になり、午前2時にはしょうゆラーメンをみんなで食べ、錠さんも一人前を完食するという鯨飲馬食、酒池肉林? な夜になりました。

ケーシーさんはその翌朝、錠さんを小名浜の魚市場の「ららみゅう」に連れてゆきました。お客さんや市場の人たちからサイン攻めにあっている錠さんを見て「あんなにもみくちゃになると、錠さんがお疲れになるんじゃないですか? 引きはがしてきましょうか?」というと「いや。スターってさ。自分がスターだなって思ってると少し元気が出るんだよ。そういう生き物なんだよね」とケーシーさんは言いました。

ああ、ケーシーさんはこんな風に友達に寄り添うひとなのだなと思いました。それからこれは書くとケーシーさんに怒られるかもしれませんが、錠さんに少なくないお見舞金もその時にお渡しになっていたようです。

 

宍戸錠さんとケーシー師匠。震災後の豊間中学校前にて(キャプション:いごく編集部)

 

おそらく数百時間はご一緒した中で、ケーシーさんが語ったことを私はほとんど覚えていません。ただ、ケーシーさんと一緒にいる私がいつもゲラゲラ笑っていたことだけは覚えています。でも、ケーシーさんが何を言ったから私があんなに笑ったのか、全然思い出せないのです。

聞く人の心の中に言葉が変に重たく残らない、揮発性の高い言葉だけを紡ぐ人だったのかもしれません。芸談も、人生訓も、苦労話もすることはなく。そういう意味では私生活でも「お笑い」に徹した人だったのかもしれません。使い捨ての楽しさと笑いで、人生の時間をやり過ごす、という覚悟のようなものがあったのかもしれません。

お会いした当時、昭和52年生まれの私は、自分が生まれる前に芸人としての全盛期を迎えたケーシーさんのことはあまりよく知りませんでした。

初めてお会いして間もない2011年の4月ごろ、『笑点』に出るからスタジオに見においでと誘っていただきました。

ステージの中央に登場して、なるべく客席に近づき、そして白衣をバサバサと手で払いながら「皆様に、福島の新鮮な放射能のおすそ分けです!」と言って客席を笑わせていました。私も笑いました。当時、沿岸部は壊滅状態で食事をとる場所もなく、しかし炊き出しなどを食べるわけにもいかない取材記者の私は、東京のアウトドアショップで大量に購入した水を入れるだけで食べられる防災食品があまりおいしくなかったので、「まずい」とTwitterに書いたことがありました。その書き込みがきっかけで「被災地では食べられない人もいるのに不謹慎だ」と炎上したことがあります(会社の総務部にまでクレーム電話がきました)。

とにかく皆が「不謹慎」なことに神経質になっていた時期のことだったので、ケーシーさんのこのギャグは鮮やかでした。私の中でたまっていた鬱屈が、この「不謹慎すぎる」ギャグで抜けていったような気がしました。

 

楽屋でのケーシ師匠(キャプション:いごく編集部)

 

ケーシーさんも孫ほどの年齢の私のことは気に入ってくれたのだと思うのですが、その後もしょっちゅう仕事の場所に誘ってくれるようになりました。その後、芸を何度も見せていただくことになるのですが、ケーシーさんのネタは例えばこんな感じです。

僕は婦人科の医師になるのが夢でした。医学部のインターン時代、担当教授が「門脇君、君も一人前の婦人科になるなら、女性器のことをちゃんと知る必要がある。沖縄に行ってダイビングをしてきなさい」。なぜダイビングが婦人科と関係あるのか? 僕はとにかく沖縄に行った。潜った海は青くキレイだったね。帰ってきて「それで僕は医師としての腕前が上がったんでしょうか?」と聞くと、教授はこう言った。「サンゴ(産後)のことがよくわかったろ」。唖然としている僕に、「これで君も立派なもぐりの医者だ」。そしたらほんとにニセ医者芸人になっちゃった。

短いエピソードの最後は本筋とは少しずれた「お色気、下ネタ」でオトす。初めてケーシーさんの漫談を見せていただいたとき、自分の出番の持ち時間いっぱいに使ってそんな小噺を手を変え品を変え何度も畳みかけていく形式の漫談は、前にもだれかの芸で見たことがあったなあ……。あ、そうだ、晩年の立川談志さんが、「長い噺は体力的に無理」ということで、こんな感じのケーシー流の漫談をやっていたっけと思い出しました。

あとからお笑いに詳しい同僚の編集者に聞いたところによると、立川談志さんはケーシー高峰を高く評価していたのだそうです。「晩年の談志さんのあれは、ケーシーインスパイアだと思うよ」と。
芸談を一切しなかったケーシーさんですが、一度だけ、その談志さんが上野の伊豆栄で定例に行っていた独演会を見に行ったときのことをこう話してくれました。

「談志師匠が高座に出ていって、しばらく客席を睨みながら黙ってもぞもぞしていたのだけど、おい! って弟子を怒鳴って呼びつけてね。着物がうまく着付けられてないから、と、その場で着物を脱ぎ始めた。みんな唖然としていたね。そこから弟子を叱り飛ばしながら着物を着るのを手伝わせたんだよね。お客は固唾をのんで見ていたよね、笑っていいのかどうなのかわからなかったんじゃないのかな。僕は、ああ、こうやって笑わせようっていうのかと思ったんだけど、ああいうカマし方は僕は嫌いでね、それで僕は途中で帰っちゃった」と。

 

ドラマにも出演されていた時の写真など(キャプション:いごく編集部)

 

私自身も、ケーシーさんに独特の気遣いをしてもらったことがあります。私は、震災取材がきっかけの一つとなり重いうつ状態になり、3年間の薬物治療を受けることになるのですが、私がどんどん様子がおかしくなっていくのを見て、ケーシーさんは双葉社の担当編集のKさんに「麻美ちゃんは、うちの空いている部屋を使ってしばらく静養したらいいんじゃないか。生活費もかからないし」と心配してくれていたとあとで聞きました。

そんな風に親身に接していただいたケーシーさんに突然距離を置かれることになったのは、2015年の暮れのことでした。

あるとき双葉社の担当のKさんから電話がかかってきたのです。

「ケーシーさんが連載を降りたいそうです」と連絡をもらいました。それから数度、Kさんといわきに伺って、連載を続行していただけるように説得したのですが、ケーシーさんのお気持ちは変わらないようでした。

何が原因か一切語ってもらえませんでした。

私自身は、ケーシーさんは私のことを孫のように思ってくれていると勝手に感じていたので余計ショックでした。なぜ連載をやめたいと思ったのか、その本音のところを言葉で聞けなかったことが私にとっては苦しみになりました。

もし何かの不始末をして、ケーシーさんを怒らせのたなら謝りたかったですし、そうではなくなにか創作上の限界を感じているならその感じている限界について共有させてほしかったのです。

連載を終了した1年後、「会いたい」と連絡をもらったのですが、どうしても気持ちの整理がつかず、お会いする当日になって「行けない」と連絡を入れました。苦しみのあまり、どうしてもいわきに足を向けることができませんでした。そして、ケーシーさんとはお会いすることなく、今生のお別れになってしまいました。

 

「いわきで一番下品なスナック」でカラオケに興じるケーシー師匠と友人の皆さん(キャプション:編集部)

 

ケーシーさんのいわきでの生活を支えた存在として、小名浜在住のKさんがいます。震災時は毎日のように給水所からお水をケーシーさんのご自宅に運び、日常的な買い物の付き添いや、病院の送り迎え、そして『いわきで一番下品なスナック』の同行など、ケーシーさんの身の回りのありとあらゆることを支えていました。

ケーシーさんの死去の報道を見た私は、そのKさんに2年ぶりに電話をしました。

「麻美ちゃん、生きている時に会わせたかったなあ」と言ってくれました。やはりKさんはケーシーさんの最期を看取ったそうです。

「すみません、なんだかあれから怖くて。どうしてもお会いすることができなくて」と言うと、「ううん、それもしかたない、みんなそれでいいんだよ、こうやって電話してくれただけでうれしいんだよ、師匠もわかってくれる」と言ってくれました。

Kさんは幼少時代に大変なご苦労をした方なのですが、それを一切出さず、あらゆる人を許して受け入れるような温かい人です。

私は言葉を信じすぎ、言葉を求めたからこそ、突如連載を降りると決めたその心の内を語らないケーシーさんに苦しみ、恐れました。

その恐れにとらわれた故に、ケーシーさんの最後に立ち会うことができなくなってしまいました。

あの時、「いや、お互いいろいろあったよな」という「なあなあ」の場を作ろうとしてくれたケーシーさんのお気持ちを汲むことができていたなら、あるいは私もケーシーさんの最期に立ち会えたのかもしれないと思うと、自分の持っている心の限界に歯がゆくなります。

日常を笑い飛ばすように過ごしていたケーシーさんのことを、心の内を語らずともわかってくれる人、それがいわき市小名浜で働きながらケーシーさんを支えたKさんで、私は心から敬意を感じました。

ケーシー高峰さん、ありがとうございました。そしてKさんにはこれからもお世話になると思いますが、これからもよろしくお願いいたします。

 

プロフィール:岡 映里(おか・えり)
作家・精神保健福祉士。慶應義塾大学文学部卒業。新潮社に入社し、記者、編集に携わる。2011年に起きた東日本大震災を3年間取材し2014年に『境界の町で』(リトルモア刊)を上梓する。2017年に新潮社を退職。他著書に『自分を好きになろう』(KADOKAWA)など。

 


公開日:2019年05月08日