死を考えることは「演じ」から生まれる

いごくフェス@ふどうおか体験レポ・後編


 

取材・文 前川あずさ

 

6月1日と2日の2日間、埼玉県立不動岡高校の文化祭の一画で「igokuフェス@ふどうおか」が展開されていた。昨年12月にいわきでの「いごくツアー」に参加した高校生たちが、自分たちの体験を共有する場として企画したものだ。高校の文化祭と、いごく。果たしてどんな空間になったのだろうか。後半のレポートをお送りする。

 

可死性という弱さと向き合う

今回の「いごくツアー@ふどうおか」を企画した生徒のひとりが、「ひとつひとつのコーナーでこれを伝えたいというよりは、この教室の全体を通して「死」そのものと向き合ってもらいたい」と話してくれた。「自分たちは普段死についてあまり考えてないけど、そもそもその死を考えてないということ自体に気づいていない。そこを気づかせたい」と。

彼らのその思惑は、見事に成功していたと思う。来場した人たちは「あの世」ののれんをくぐって教室に入り、老いや死を主題にした体験を受け取るだけでなく、体験を通してその向こう側にある何かもう少し大きなものに手を伸ばしているように感じられた。それは私たちの外側にある概念としての老いや死ではなく、むしろ私たちの誰もが内側に隠し持っている運命としての「老いること」や「死ぬこと」そのものだった。

 

あの世と書かれたのれん。これをくぐることで、死が「笑い」を帯びたものになる

 

普段は目に触れること、口に出すことが避けられているそれが、最初から赦され、開放されている空間があの教室だった。死んじゃってるじゃん、死んでみよっかな、死んだらこうなんだ、「死」にまつわる言葉がためらいなく飛び交っていたのがその証拠だ。

それは、たとえば終活のように死の準備をすることとも違って、本当にただ、老いることや死ぬことに触れてみるということができているということを意味していた。ここは「死」を話題にしてもよい場所だという了解の共有が、それを可能にしていたように思えた。

一方で、生徒に「涅槃スタグラム」や入棺体験を勧められて、「いえ、私はいいです……」と断る人ももちろんいた。見ていて、それも正しい応え方だと強く感じた。自らがいつかは老いて死ぬべき存在だということ、可死性とでも呼ぶべきその事実は、とてつもない弱さを含んでいるからだ。

入棺体験の棺の中の姿がまさにそれを表している。死体を演じて、動くことも声を上げることもなくじっと横たわるということは、自らの可死性の中にある弱さや無力さをその人々の前にさらけ出すことと直結している。見知らぬ人もいる空間の中でそれを行うにはおそらくちょっとした勇気が要るのだ。今ここでその勇気をください、と要請されても応えられない気持ちはよく分かって、老いること、死ぬことが秘匿される理由は意外とそういうところにもある気がした。

老いや死が単にネガティブなものだから、という以上に、私たちがひとびとのあいだに生きているからこそ感じる自らの弱さへの根本的なためらいが、無意識に老いや死を遠くへと押しやるのかもしれない。ふつうの人がふつうに訪れる文化祭という場が、そんな発見もくれた。

 

棺に入れられるときも笑っている生徒たち。その笑いは、どこから来るのか

 

弱さから生まれる笑い

老いて死ぬ運命そのもの、誰もが隠し持っているその弱さがさらけ出された空間で、溢れてたのはしかし切実さではなく笑いだった。圧倒的に、笑いだった。とろ~りドリンクを飲んで「まずっ!」と笑い、涅槃スタグラムを撮って「めっちゃ盛れてる!」と笑い、棺に入った友達を見て「死んでんじゃん!」と笑う。

そこにある笑い声があまりにも自然すぎるからぼんやりしていると違和感すら感じないのだけれど、ふとそのことを考えてみるとなんだか不思議な気分になる。ある女性は、旦那さんが棺に入っている姿を見て笑ってしまい、「本当は笑っちゃいけないですよね、すみません」と律儀に謝っていた。老いや死、笑っちゃいけないと思うのに、笑ってしまう。悲しくて重たい、厳かなもののはずなのに、いざ目の前で不意に演じられると、滑稽に思えて仕方がないのだ。

その笑いはどこから生まれるんだろう、と考えてみると、やはりそこでむき出しになっているのが他者の可死性だということに思い当たる。

他者の可死性、それは普段ほとんど行き当たることがない、究極の「他者の弱さ」だ。それを改めて目の前にしたとき、そこにはさまざまな感情が芽生えるのだろうけれど、中でも特に強調されるのは、驚きと安堵なのだと思う。いつも当たり前に接している誰かが、いつでもこうして無力になりえるという驚き。また、自分だけでなく誰もが、いずれは老いて死にゆくという安堵。自分も他者もどうしようもなく弱いのだということを知って驚き安堵した心が結果的に笑いへと向かっていっているような、そんな気がするのだった。

そして、その笑いが表に出ることができるのは、そこで繰り広げられている他者の可死性がそもそも「演じ」によるものだからなのではないかとも思った。「演じ」は「演劇」ともまた違って、なんの物語も文脈もなくゲリラ的に、今ではなくここでもないいつか、どこかを出現させる。

本当ではないけれど決して嘘ではない何かを立ち起こさせる。その、端っこのない時空間は、老いや死が本来的に持っている痛みやつらさを一時的に遠ざける効果を持っている気がした。タブーなものの周りにあるタガを「演じ」の力が外してくれるからこそ、咎められない笑いが、生まれることができる。

 

高校生たちの「演じ」が、わたしと死との間に余白を生んでくれる

遊ぶ余白のある舞台

文化祭という空間には、生徒たちが試行錯誤して作り上げた数々の世界観がひしめき合っている。オトナが予算をつけて作るものとはまた別の、手作りで企てのない無邪気さが根底にある。老いや死と向き合うことを目指した今回のいごくフェス@ふどうおかも、そんな空気の一画で行われていた。

老いること、死ぬことと向き合い、さらけ出し、それを笑いで受け止める。そのための「演じ」が可能になったのは、演じるための舞台がきちんとセットされていたからだ。なりきり高齢者、とろ~りドリンク、涅槃スタグラム、入棺体験、それぞれはいわばその舞台を構成する大道具だった。

来場した人たちはとりあえずその舞台に上がって、演技をしたり、しなかったりする。役者になるか観客になるかは居合わせた人自身が決められる、そんな余白のある舞台空間だった。

高校生が、文化祭で、自分たちの体験をもとに老いや死をテーマにするということ。訪れた多くの人たちにとって、そこで目の前にした自分や他者の可死性は、突然で偶然に出会ったものだったことだろう。しかしその、出会おうとしたわけではないのに出会ってしまった、出会わざるをえなかった、という性質は、老いや死が本来持っているものとよく似ている。

そういう意味でも、文化祭でのあの空間は、その内容を体現している一画のような気がした。いごくツアーを経た高校生たちが、次の「いごき」を作り出した瞬間を目撃した、そんな二日間だった。

おわり


公開日:2019年06月26日