数奇な運命、ヤッチキ

取材・文 江尻浩二郎


 

 

数奇な運命だ。その踊りの名はヤッチキという。

 

ヤッチキは、明治~大正期に九州の炭坑夫が伝えたものとされている。しかし証言や記録はほとんどなく、実際調査した者もいない。

 

大正中期には、内郷白水の炭坑夫たちが、仕事の帰り道、阿弥陀堂の境内でカンテラを囲み踊っていたという。明治36年生まれ、岡崎マサさんの証言だ。坑夫たちは「事故死した人々の供養に踊るのだ」と言っていた。この踊りを見て、マサさんの父は「九州地方の坑夫もこの踊りを踊っていた」と証言している。これが九州炭坑夫ルーツ説の唯一の根拠だ。

 

磐城地方最大の盆踊りといえば赤井嶽薬師の宵祭りであった。近郷はもちろん、遠くは高萩や古殿などからも大変な数の人々が押し寄せたという。この宵祭りにおけるヤッチキの最古の証言記録は昭和6年。半纏姿の男10人ほどがテンポの早い踊りを始め、従来の盆踊り(当時は平甚句)の輪を壊してしまったという。「異端」とされるヤッチキは、ここでとうとう磐城カルチャーのメインストリームに顔を出した。

 

ヤッチキは、この赤井嶽薬師の宵祭りが情報伝達の場となって、にわかに各地に広まって行ったと考えられている。「本場はなんといっても内郷、湯本だった」という証言があり、産炭地で特に盛んだったようだが、文句(歌詞)が卑猥だということで、戦後の性風俗浄化の中で徐々に下火となり、残念ながら多くの地域では途絶えてしまった。

 

 

草野日出雄『霊場閼伽井嶽』より 昭和初期のやっちきの身支度

 

 

 

常磐ハワイアンセンターとの日々

 

昭和52年、このヤッチキに大きな転機が訪れる。当時、常磐ハワイアンセンター(現スパ・リゾート・ハワイアンズ、以下ハワイアンセンター)の営業本部長であった菊地勇氏が、観光客誘致の目玉とすべく「全国民謡民舞大交歓会」の開催を検討していた。全国の組織の代表、研究者など約40名程がハワイアンセンターで協議をしていたが、「地元の民謡民舞もひとつ」と乞われ、さほど自負もなく披露したヤッチキが出席者の度肝を抜く。同イベントのメインテーマは、彗星のように現れたこのヤッチキに決まってしまった。

 

前のめりになった菊地氏は市内各地に保存会を発足させる。その数15。「縄文の昔から2000年続く太古の踊り」という触れ込みで、神代調の衣装を定め、新しい振り付けである「古代ヤッチキ」を考案した。それまでは地域ごとに異なる踊り方をしていたが、ハワイアンセンターの型に整理する団体もあり、また、日舞の先生を入れて「野卑な」所作を改める団体もあったという。

 

三和町上三坂は踊りを変えなかった。専門家からそのまま残すよう勧められたのだ。ほかの地域とはかなりニュアンスが違った踊りだったという。

 

昭和53年、二代目鈴木正夫が唄う「いわきヤッチキ」がビクターレコードから発売。昭和54年2月、第1回全国民謡民舞大交歓会。昭和53年9月、時の人気番組「11PM」に生出演。昭和54年1月、第2回全国民謡民舞大交歓会。昭和55年2月、第3回全国民謡民舞大交歓会。

 

 

鈴木正夫「いわきやっちき」レコードジャケット

 

 

いわき民報(昭和55年1月30日付)より第3回全国民謡民舞大交歓会告知

 

 

 

菊地氏は新しく生まれた「いわき市」でヤッチキを阿波踊りのような名物踊りに押し上げようと考えていた。しかしその夢は叶わない。昭和56年2月、市政15周年を記念して「いわきおどり」の創作を決定したいわき市は、その歌詞の全国公募を開始。そして昭和56年10月4日、記念すべき第1回いわきおどりが開催される。

 

失意の菊地氏は、翌57年、第1回徳一菩薩まつりを開催。レンガ通りから本町通りに入って五丁目まで、徳一像を先頭に、じゃんがら30組のほか、市内30地区から集まったヤッチキ団体で盛大な流し踊りを敢行した。

 

 

いわき民報(昭和58年6月3日付)より 第2回徳一菩薩まつり告知

 

 

いわき民報(昭和58年6月18日付第2部)より 第2回徳一菩薩まつりの様子

 

 

同上 第2回徳一菩薩まつりでのヤッチキ群舞

 

 

しかし同年、ハワイアンセンターを運営する常磐興産の社長が交代すると、ヤッチキ系事業からの撤退が決定。昭和58年6月、第2回徳一菩薩まつりが開催されるものの、その後、上三坂を残してすべての保存会が消滅した。

 

唯一残った上三坂のヤッチキを、県の文化審議会は気にかけていた。「重要無形民俗文化財」に指定したいが、ヤッチキは市の「無形民俗文化財」にすら指定されていない。市を飛び越えて県が指定することは通常ありえないのである。しかし市に要請してもなかなか進展がない。市内ではヤッチキの文化的価値はほぼ認められていなかったのだ。平成8年、しびれを切らした県は、飛び級でいきなり県の「重要無形民俗文化財」に指定するという異例の措置に出る。ここでもまたヤッチキは翻弄されていくのである。

 

 

いわき市教育委員会『いわき市の文化財』より 上三坂のヤッチキ踊

 

 

 

上三坂ヤッチキ踊り保存会

 

その後20年以上、重責を担って活動してきた「上三坂ヤッチキ踊り保存会」であるが、平均年齢が70歳を超え、いよいよその継続が難しいものとなってきた。メンバーで話し合った末、昨年、保存会の貯金を使い、皆で芦ノ牧温泉へ1泊旅行に出かけた。それで休止にするはずであった。

 

ところがその直後、ハワイで40回続いている「まつりインハワイ」というイベントに招聘される。これは日本の伝統芸能を世界に発信するため、毎年ホノルルで開かれているものだそうだ。戸惑いもあったが、せっかくだからと今年6月、ハワイホノルル島に遠征。アンコールの声もかかる大盛況であった。

 

それと前後してオリンピック関連イベント「東京キャラバン」からも声がかかる。リーディングアーティスト近藤良平氏(コンドルズ主宰)の元、東京のミュージシャンや地元のヒップホップグループなどとセッションし、一日限りの素晴らしいパフォーマンスを披露した。

 

 

福島民友(令和元5月19日付)ハワイ遠征前の記事

 

 

まつりインハワイでのステージ

 

 

ヤッチキとはなにか

 

ではヤッチキとはどんな踊りなのだろうか。

 

右手と右足、左手と左足が同時に前に出る、いわゆる「なんば」である。テンポが早く飛び跳ねるので「はねっこ踊り」と呼んだところもある。櫓も太鼓も必要なく野良で踊ったので「野良踊り」だというところもある。通常の盆踊りを早間(速いテンポ)で踊る「早踊り」を指すというところもある。炭坑夫が踊ったので「炭坑踊り」だともいう。近郷の集落に遠征し、そこの踊りを壊す「壊し踊り」だと考えているところもある。これだけみても、とてもその正体がひとつであるとは思えない。それらがある時期に「ヤッチキ」という名称で括られてしまったという印象で、その定義は非常に難しい。

 

しかし共通項として、その文句(歌詞)は眩暈がするほどエロティックだ。上三坂の保存会では159もの文句が資料として記録されているが、その性描写は豪放磊落。性器の呼称も容赦なく唄いこまれている。ベッ〇ョ、〇ンコ、ヘ〇コ、チャ〇コ、ベ〇、マ〇、サ〇と目が覚めるようだ。いやはや素晴らしい。いやひどい。いややはり素晴らしい、と個人的には思う。

 

戦後の性風俗浄化で敬遠された原因は、盆踊りという場のあり方だけでなく、このような「卑猥な」内容の文句にもあった。かつて全国各地で無数に生まれた「春歌」は、その多くが記録されることもなく忘却されて行ったのである。

 

もう亡くなられたが、上三坂に先崎まつ代さんという方がいた。「ヤッチキばっぱ」の異名をとり、「オレが死んだらヤッチキで送ってくれ」とまで言い残したレジェンドだ。しかしその本人が残した録音が「すごすぎて」、結局葬儀では「あまりすごくないほう」の録音だけがかけられたという。

 

すごいほうの録音はどのようなものだったのか。先日特別にそのカセットテープを聞かせていただいた。そこには保存会の資料にも記録されていない、予想をはるかに越える珠玉のパンチラインが炸裂していた。私はこれまでヤッチキと疎遠だったことを改めて悔いた。これは記録しなければならない。そして、然るべきしつらえをして、皆に伝えるべきである。

 

 

先崎まつ代さんの残したカセットテープ「54.6 すごいの」とメモ

 

 

 

ヤッチキ幻想

 

遠く九州から炭坑夫が伝え、異端の踊りとして排斥されていたヤッチキが、やがて磐城のメインカルチャーに登場し、各地で踊られるほど流行する。戦後の性風俗浄化で徐々に廃れるが、昭和50年代、ハワイアンセンターの観光客誘致キャンペーンで大々的に取り上げられ、各地に保存会ができ、縄文の昔から続く太古の踊りだと騒がれ、平本町通りで大パレードまで行った。しかしハワイアンセンターの予算の打ち切りと共にまた廃れ、保存会は上三坂だけを残して解散。

 

その後、ある研究者の熱意もあって飛び級で県指定重要無形民俗文化財となり、国立劇場で公演するなど栄華を極め、しかしその文化的価値について今なお否定的な意見が多く、いよいよ高齢化で活動休止にしようと貯金を使いきったところで、ハワイに招聘され、オリンピックイベントから声がかかり、そして今、いごくフェス2019「ソトフェス」に降臨する。

 

数奇な運命だ。その踊りの名はヤッチキという。

 

それでも尚、調査研究はされず、なんとなく「いかがわしいもの」とされており、そしておそらく、遠くない将来、静かに消えていく。異端、よそ者、仇花。磐城カルチャーの鬼っ子中の鬼っ子。そんなところに私は、いごくフェス2019のテーマ「極彩色」を感じるのだ。

 

今年はこのヤッチキを取り上げたい。上三坂の面々が平中央公園の芝の上で躍動する。昨年同様、飛び入り大歓迎である。ぜひ一緒に踊ってほしい。そして唄に耳を澄ませてほしい。今回は特別に、死語と思われる性器呼称はいくつか唄い込んでもらうことにしている。こんな機会、二度とない。万障繰り合わせの上、ご参集願いたい。

 

ヤッチキ見たけりゃ今見ておじゃれ。東西。東西。

 

(終)

 

 

 

 

参考文献:
草野日出雄『霊場・閼伽井嶽』1981
菊地勇『幻の名僧 徳一菩薩と私:炭礦から華麗な転身 常磐ハワイ創業秘話』2002

 

 

 

 

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いごくフェス2019「ソトフェス」に「ヤッチキ踊り」降臨!

■日時:2019年08月31日(土) 15:00-20:30
15:00開場・ブース開始  / 16時ステージ開始  /  20:30終了予定
*小雨決行、荒天中止 *ピクニックシート、アウトドアイス持ち込み可

■会場:いわき市平中央公園(いわき市平字三崎1)※いわき芸術文化交流館アリオス前

■入場:無料

■司会:渡猛、カタヨセヒロシ(6-dim+)

■音楽プログラム 16:30~
奇妙礼太郎、MIDORINOMARU、原田茶飯事、ヤッチキ踊り、岬はな江と若葉会、DJ革パン刑事

※いごくフェス2019について、さらに詳しいはこちらをチェック!

 

 


公開日:2019年08月24日