看取りを「楽しんでしまう」という体験

いごくフェス2019 VR看取り体験会(研修の募集は終了しました!)


 

看取り。

一言でそう言っちゃうと、なにか簡単な動作のようにも思えるけれど、つまり人の死を目の前で見守るわけで、そこには、いま人生を終えようとしている人の、その人生の重みや長さや蓄積、思念のようなものも込められているはずだ。だからとてつもなく重いものだと思う。たった3文字なのに。

そしてその「看取り」は、医療や福祉、介護に関わる人たちにとっては「よく体験すること」かもしれないけれど、自宅で死を迎える人が劇的に減っている今、ぼくたちのような一般の人たちが看取りを体験する機会は、人生でたった数回、まあ普通に考えて、自分の親とか配偶者の親とか、そのくらいのものだろう。

というか、多くの人たちにとって、看取りとは、あまり体験したいものではないし、自分が誰かを看取るのも、自分が看取られるのも、できることなら先送りしておきたいもの。けれども。死は誰にも訪れるものであり、人生の最期の瞬間をいかに迎えるかというのは、じっくりと考えるにふさわしいテーマであるように思う。

 

つまり、看取りとは・・・

とても大事なくせに、あまり考えたくない。
考えなくちゃいけないことなのに、先送りしたくなる。
明日訪れるかもしれないのに、まだ先でいいと思ってしまう。

つまりなんだかとてもバランスが悪いのだ。

このバランスの悪さをどうしたらいいだろう。「重すぎて考えたくない」ことだから「軽く考えられること」にすればいい、というわけではないはず。「考えたくもないこと “だけれど” 考えておかないといけない」ことにできたらいいのかもしれない。なんというか、両者をつなぐには特別な「接続詞」が必要な気がするのだ。

 

たしかな体験と対話の場になっていた「VR看取り体験会」 事故物件住みます芸人の松原タニシさんも参加

 

自分が「看取られる」体験

今回いごくフェス2019で開催された「VR看取り体験会」は、その “接続詞” を作る企画だと思えた。「重いこと」と「考えること」の間に体験という名の橋をかけ、その橋の上に、言葉という車を走らせる。言葉の車が行き交うことで両者のバランスが整えられ、「重いことだけれど考えてみよう」という気にさせる。そんな企画だった。

9月1日午前10時。講師をつとめる株式会社シルバーウッドの下河原忠道さんが、会場のいわきアリオス小劇場で挨拶を始める。下河原さんは、いつ会ってもポジティブな表情をしている。声も明るい。これから死を、看取りを考えるのにだ。明るい声で「今日はみんなで看取りを考えていきます。死を考えることは悪いことじゃありません。むしろ死を考えることが、生をポジティブにしていくんです」といった具合に。

下河原さんのカラッとした言葉に、ちょっとシリアスになっていた会場が、少しずつ温度を取り戻していくようだった。

 

明るくポジティブな場にしようという下河原さんの思いが伝わってきた

 

ひとしきり下河原さんの話を聞いた後、VRを装着し、その世界に没入していく。

まず目の前に流れて来た映像は、まさに今、死を迎えようとしている「自分」だった。末期のガンで余命いくばくもなかったことは自分でよくわかっている。容体の急変で息も絶え絶え。もう死ぬ準備もできている。言葉は発せないが、脳内の「このまま逝かせて」という言葉が台詞となって再生される。

ところが、家族の意向を受けて、救命医療の医師たちは容赦なく「救命医療」を行う。家族が医療行為を望めば、それをしなければならないからだ。相手が何歳だろうと、目の前の人の命をつなぐのが救命救急医療の役割。現場の医師たちは当然最善を尽くそうとする。

ヘッドホンを通じて、バキバキと肋骨が折れる音や、「もう、やめて・・・」という声が聞こえてくる。最期の時を静かに迎えられたはずが、その思いとは裏腹に無理矢理に命を延命させられ、自分で用意してきた死期を先延ばしされてしまう。実に後味の悪い映像だった。

ぼくは、VRで誰かを看取るシーンを体験するのだと思った。けれど実際には違った。ぼくは、誰かを看取るのではなく、看取られるほう、死にゆくほうだったのだ。だから、飛び込んでくる情報の重みがまるで違う。「死」が、誰かのものではなく「自分のもの」として五感に迫ってくる。後味の悪さは、体験したのが「自分の死」だったからだろう。

 

目と耳を接続することで、VRの世界に埋没していく参加者

 

映像を見終わると、その都度ディスカッションが行われる

 

映像を見終わると、その都度テーブルでディスカッションが行われる。下河原さんは正解を提示しない。答えは人の数だけあっていい。問題は、死について「自分ごと」として考えられたかどうかだ、というスタンスを貫いているように見えた。

ぼくたちが体験したものが、もし、家族を看取る映像だったらどうだろう。ぼくは家に帰って「お父さんは最期どう死にたいの?」と聞かなければならないだろう。けれど、実際に体験した映像は「自分が死ぬ」映像だった。だから、家族や友人に話す言葉は「おれはこう最期を迎えたい」という自分の話、自分の意志の表明になる。

もちろん、考えた結果「最期の瞬間は家族に委ねる」でもいいし「延命治療もしてほしい」でもいい。けれど、それが自分の意志でなければならない。だからこそ、この日の1本目の映像に「自分の死」が選ばれているのだろう。否応なく「自分ごと」として考えさせるのだ。

 

映像と映像の間には、下河原さんのレクチャーも。考えなければいけないことは多い

 

その「意志の表明」というテーマは2本目の映像にも引き継がれていた。

ネタバレになってしまうので詳しくは書かないけれど、2本目の映像は、いかに本人の意志を家族がキャッチするか、という内容だった。家族の面前で「私はこう死にたい」と宣言する人は、そう多くはない。むしろ、日常的な会話のなかでボソッと表明されたりするものだ。2本目の映像は、日常会話に隠されたヒントをどう拾いとるのかをぼくたちに考えさせた。

映像を見て思い出したのは、うちの母だった。ぼくの母は先日ちょっとした内視鏡の検査のため、市内の病院に数日間入院したのだが、帰ってくるなり「病院は退屈だし、よその人にも気を使うし、ご飯もおいしくない。やっぱり家がいいわ」みたいな話をしていた。あれこそが意志なのだろう。

きっと人生の最期のほうになれば、母もきっと上手に喋ることはできないだろう。意志はあっても、それを確認することはできない。ならば、日常的に本人の意志をキャッチし、家族で合意を作るほかない。家族が聞いていなくても、ヘルパーさんやケアマネさんが聞いているかもしれない。そうやって本人の意志を皆で確認しあい、合意を形成し、それをもとに家族が決められたら、本人の望まない延命治療は避けることができるはずだ。

 

シビれるようなパンチラインの連続

 

看取りを演劇的に体験していく最後のロールプレイ

 

死を、できる限り楽しく、笑顔で考える(迎える)

その後、看取りに関するVRをもう1本見たぼくたちは、「看取り」そのものをロールプレイし、実際に演じるワークに参加した。最期を迎えようとしている人、家族、医師、ケアマネージャーなどを演じながら、いかに最後の意志を確認しあい、いかに方針を決定するかを演じるのだ。

みんな役者ではないからセリフは棒読みだし、なかなか気の利いたコメントも出てこない。正直言ってなんかの素人劇である。けれど、その笑いの随所に、意志の決定、伝達、確認というシビアな現場が挿入されている。直接的にではなく、そうして遠回り遠回りしながら、シリアスなところにたどり着く。そんな時間。

リアルなVRで終わるのではなく、こうして和気あいあいとした、ちょっと笑っちゃうような演劇のロールプレイで終わろうというのもまた、下河原さんの狙いなのかもしれない。その笑いや笑顔によって、「死」と「思考」の間に架けられた橋の上を、言葉が積極的に行き交い始めるのだ。

ぼくなら、どう最期を迎えたいだろうか。父はどうだろうか。母はどうだろうか。妻はどうだろうか。そうやって家族の顔を思い浮かべていったら、なんだかしみじみとしてきて、いやあ、生きている間に、もっと色々な話をしなくちゃなとか、ケンカしてる暇ねえやとか、そんなことを考えてしまった。

夢物語を言えば、ぼくは、いっしょに老いた仲間たちと老人ホームを作って過ごすのが面白そうだと思っている。できるだけ元気なうちに断捨離して、必要なものだけを持ってそこで暮らす。そして友人や家族に、笑顔で送り出してもらいたい。じゃあ、そうするには何が必要だろうか。結構やるべきことがありそうな気がする。いや、反対にろくな死に方はしないだろうな、という気もする。

けれども死は、いつだって、問いを「生」の方向に跳ね返してくれるのだった。死を考えることは、やはり生を照らすのだ。

 

誰かが死ぬ場面を想定しているのに、なぜか笑顔で楽しそう

 

ぼくは、冒頭で、「VR看取り体験会」は「重いこと」と「考えること」の間に体験という名の橋を架け、その橋の上に言葉という車を走らせるような企画だと書いた。けれど忘れていた。車が動くためにはエネルギーが必要だった。

言葉という車は、多分「面白がってしまうということ」によって駆動する。人生で一番シリアスなことだけれど、それを演じてみる、面白く体験してみることによって言葉が動き出すのだ。人生の最期にキラッと輝くのだって、案外、そういう言葉かもしれない。

そして、これまでなんども看取りを体験してきたはずの下河原さんが、死を考えるワークショップなのにニコニコしている理由が少しわかった気がした。下河原さんの言葉もまた、きっとそれらによって駆動している。今日のワークショップみたいに、家族で笑って最期を迎えられたら、なんて幸せな人生だろうか。

 

熱気が冷めやらぬ会場で、下河原さんに話を伺うことができた

 

プログラム終了後、下河原さんにちょっとだけ話を伺った。

下河原:看取りを体験するということで、皆さんどうしても構えてしまいますよね。今回も、参加者の方のテンションが低いように見えたので、プログラムをちょっといじって序盤に明るい話を折り込むようにしました。それでみなさん表情が明るくなりましたね。どこで開催しても、みなさん構えてしまうものですが、予約をキャンセルする人はいません。申し込んでくれた人が100%の方が来てくれます。知っておくべきだと心のどこかで感じてくれているんだと思います。

ぼくはね、死について、もっと若いうちから勉強しないといけないと思ってるんです。死を学ぶとポジティブになるからです。「いごくフェス」だって「生と死の祭典」とか謳ってるじゃないですか。あれ、最高にいいですよね。死について考えるけど笑顔でいいんだっていうメッセージになってます。このVR看取り体験もそうなんです。最後にロールプレイをしますよね。あれ、みんなで演技するから、なんか面白くて笑顔になる。笑顔で死の話をしてるわけです。だって、人生の最期は笑顔で終わらないといけないし、実際、銀木犀で最期を迎える人たちはみんないい顔をしてる。実際の看取りもね、笑顔で終わるんです。

一方で、そうした看取りを実現するには課題もある。看取りは在宅医療、在宅看護を前提にするので、地域のドクターたちの理解がなければ実現できません。いわき市がこれだけ看取りに敏感なのは、そういうイケてるドクターがいるってことだと思います。けれども、どれだけイケてるドクターがいたとしても、最期は家族が決めなくちゃいけない。市民みんなで死を考えて、イケてるドクターと一緒に看取りを考えていけたら、もっと最高に面白い地域になると思います。

包括ケアって、やっぱり地域づくりのプロジェクトなんですよ。認知症のおじいちゃんやおばあちゃんを地域でどう受け入れていくかという問題なんです。銀木犀でもね、駄菓子屋のスタッフを高校生がやってたり、スタッフじゃない人が仕事を手伝ったり、もう、色々なものがごちゃまぜになっていってます。こういうダイバーシティを作っていくのが包括ケアですよね。色々なものが勝手に始まっていくのがいい。

以前のように地域の中に「隣組」のようなコミュニティを取り戻せるかというと難しいと思います。それに、家族というものも揺らいでいますよね。だけど、血がつながっていなくてもこの人は家族なんだと思える人だっているし、最期を看取るのは友人だっていいんです。そういうふうに、緩やかな関わりだけど家族なんだって、それでいいと思うし、家族という概念は、もっと拡張していってもいいのかもしれないね。

これから日本のあちこちに、そういう緩やかな場所を作っていくためには、介護事業や福祉事業を行う人たちが、もっと経営を学ばないといけないと思っています。介護のなり手を増やそうとすると、介護は楽しいよ、面白いよってキラキラした魅力発信ばかり考えてしまいがちだけど、何が問題かというと事業所のリーダーシップや経営力なんです。

それで、今年の10月から新しいVRのプロジェクトを始めます。介護事業者向けのマネジメント力向上プロジェクト「マネジメントスタンダードプログラム for Kaigo」というものです。全国10箇所でスタートします。10月14日には、いわきでもやりますよ。ぜひ参加してみてください。

 

マネジメントスタンダードプログラムfor Kaigo

画像をクリックすると申し込みの書類(PDF)が開きます

 

介護の現場に必要とされている 「マネジメントの原理原則」を習得し、マネジメント力を身につけ、介護現場全体の力を高めるための研修です。

関連記事:PR TIMES 介護現場のマネジメント力向上を目指す研修の参加者募集

日時:2019年10月14日(月)12:00~18:00(開場11:30)
会場:いわき市総合保健福祉センター(福島県いわき市内郷高坂町四方木田191)
参加対象者:介護・福祉事業所の運営に携わる管理者、現場のリーダー
定員:50人
詳しくは、申し込み資料をご覧ください。

 


公開日:2019年09月10日