高校生たちの見た「いごくフェス2019」②

埼玉県立不動岡高校の生徒たちによるレポート


 

(すべての写真:鈴木穣蔵)

 

昨年末に開催された研修旅行「ふくしま学宿」において、いごく編集部がコーディネートした「いごくツアー」を1日体験した、埼玉県立不動岡高校の生徒たち。地元に帰ったあと、自分たちの高校の学園祭で「いごくフェス@ふどうおか」を開催し、さらに今回のいごくフェス2019に参加してくれただけでなく、感想文まで寄せてくれたのです。

高校生たちが見た、そして感じたいごくフェスとは。フェスを体験した5人の感想文を、2回にわたって掲載しています。今回はその後編。武田くんと小林さん、2人の感想をまとめました。

 

この日全員で踊った「やっちき」にも、生きる歓び、死者への供養の意味が込められている

会場には子どもたちの姿も目立った

 

「生きる」ことってこんなに楽しいんだ。そんな単純な、しかしたどり着くのは非常に難しい境地を今回のいごくフェスは見せてくれました

『死ぬ』ってどういうことだろう?

普段は考えづらいそんな問いに、ぼくは、昨年12月の「いごくツアー」を体験させてもらったり、今年6月に「いごくフェス@ふどうおか」を運営したりするなかで、ぼんやりとですが答えが見えてきたような気がしていました。だから今回初めて本場のいごくフェスに参加させていただいて、「死ぬ」ことを改めて考えてみよう、と思っていました。

しかし、フェスの初めにいごく編集部の小松理虔さんにご挨拶に行った時、理虔さんは「今回はさらにすごいものを見せますよ!」とおっしゃっていました。初めは「死ぬ」ことを考えるということすらもインパクトが大きかったのに、今度はどんなすごいものを見せてくれるのだろう、と胸に小さなひっかかりをもちながらフェスはスタートしました。

まず真っ先に初日のソトフェスに足を踏み入れて驚いたことは、園児から小学生くらいの小さな子どもたちを連れた家族層が非常に多かったことです。「生と死を考える」だとか「地域包括ケア」といったことから高齢者は集まっても、むしろそういった家族層は物忌みしがちなのではないか、と考えていたためこれは驚きでした。

いわきのレジェンド、中山元二先生もおっしゃっていましたが、現在の日本では死について考えることはタブー視されています。「いごくツアー」や「いごくフェス@ふどうおか」において、僕たち高校生の世代でも棺に入ることに抵抗感を示す人は少なくありませんでした。そんな中、幼い時から自分の身近に当たり前に棺があるこの子どもたちの世界はどんなものになるのか、自分もまだまだ若造ですがすこし感慨深くなってしまいました。

年齢層以外でも、ソトフェスでの空気感も様々な雰囲気がごった煮になっていました。左に目をやるとビールやワインなど酒屋が並び、右に目をやると音楽フェスが開催されていて、後ろに目をやると今度は棺がに入ったり遺影を撮っていたりする。こんな異質なもの同士の集合地、いごくフェス。

なるほど、今回のフェスのテーマは極彩色、つまり毛色の異なることを許容していく理想的な社会を目指すということです。そしてその社会は死後の世界ではなく、私たちの生きる社会であってほしいという願いのこもったテーマです。理虔さんがいっていた「すごいもの」とはこれだったのか。すなわち今回のいごくフェスは「死ぬ」ということから「生きる」ということを考えるイベントだったのです。

思えばナカフェスでのロクディムさんの即興演劇も日常という「生きる」ことの一場面を、毒蝮三太夫さんらによる「スナックらん」の企画も、亡くなったケーシー高峰師匠への追悼と共にこの世に残って「生きる」者たちの姿を見せてくれていました。ソトフェスでも子どもは走り回って、大人はビール片手に、楽しそうに「生きる」ことを謳歌していました。

空間自体を異質なもので埋め尽くすことで、各々の極彩色を許容し、表現する自由を生み出す。「生きる」ことってこんなに楽しいんだ。そんな単純な、しかしたどり着くのは非常に難しい境地を今回のいごくフェスは見せてくれました。じーちゃんもばーちゃんもお父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんもお坊っちゃんもお嬢ちゃんも、みんなそれぞれの極彩色を出すことのできた最高のフェスでした。

武田 敬吾

 

圧倒的にバえると評判の「涅槃スタグラム」 遺影の撮影を楽しく体験できる

 

色とりどりの「極彩色」。高校生たちは、どのようにその色を感じたのだろう

 

生と死を見つめることは、未来を考えることだけではなく、今の自分と対話することなんじゃないか。

igokuFes2019~極彩色~。初日の外フェスから参加させてもらいましたが、はじめから最後まで楽しめました。なんといってもその構成。昨冬のふくしま学宿から感じてはいましたが、igokuチームの皆さん、よく考えられているなと。「地域包括ケア」というちょっと堅い響きの言葉からは直接は結びつきにくそうな多種多様な催しでした。はじめてigokuの活動に触れた方々は、きっと帰宅した後も衝撃が続いたことでしょう。

igokuFesは、地域包括ケアの祭典であり、生と死の祭典だと言われています。でも、生と死を意識していたでしょうか。私自身は、そのテーマも忘れて、いわきの美味しい食べものをいただいていました(笑)。美味しかったです。公園に集まった人たちも、「地域包括ケアか、興味深いな」などと言って学術的興味を惹かれて訪れた人は少数だと思います。きっと出かけ先の帰りだとか、偶然通りかかったとか、ライブの出演者のファンだっていう理由であの場に踏み入れた人が大半だったはず。その意味で、igokuFesは「普通のフェス」のようにも見えました。

けれど、そんな「普通のフェス」の会場に、入棺体験や涅槃スタグラムのスペースがある。そんなちょっと異彩を放った企画を「フェス」という形で包み込んでしまう。飯あり、音楽あり、盆踊りあり、明らかな下ネタもありました…。2日目のナカフェスでは、くすくす笑ってしまう談話、ネタ、即興演劇。ごちゃまぜな企画のフェスをきっかけに、参加した人が自ずと知らぬ間に地域包括ケアの輪に組み込まれてしまうんです。よくできているなーと改めて思います。

私は、いわきの美味しい食べもの、飲み物を楽しんで、元気なおばあちゃんたちとおしゃべりして、音楽を聴いて、しまいには盆踊りまで。盆踊りなんか、ほんとにひっさしぶりに踊りました。しかもいわきの。リズム感なしの私には、踊り慣れていない土地の踊りはなかなかきつかったですが、前方で思いっきり楽しんでしまいました。でもきっと、そういうことができる点なのだと思います、「フェス」の可能性は。

今回のigokuFesのテーマは「極彩色」。「人が本来持っている極彩の色を、あるがままに出すことのできる社会。そんなことをみんなで笑いながら考えるフェス」だということで(パンフレットより引用)、まさにそうだなと。音楽にのって楽しんだり、ご飯を食べて「美味しいなー」って思ったり、音楽に乗って踊るっていうのはまさに普段の私たちそのものの「本来の色」だなって。そして、そういう普通の雰囲気の中で、「ああ、入棺体験とかあんのか。やってみちゃうか!」って、生と死を考える世界へ踏み込んでしまう。それがよかったです。

昨年のふくしま学宿もそうでしたが、友人や先生と「最期への向き合い方」を考えていたとき、「死を考えることは生を考えることだね」とみんなで話していました。そして、生と死に向き合う、その向き合い方は、もしかしたら考えるという作業だけではないのかもしれないと今回強く感じました。

生と死というのは、考えたら終着点が見えなくて、とても苦しくなってしまう時があります。難しくて、考えても「結局死んだら分かんないしなー」って投げ出したくなる時もあります。生と死と聞くと、どうしても「自分はどう生きたいのか/死にたいのか」と、現状からの変化、つまり未来ばかりを考えがちです。それゆえの答えのなさ、わからない怖さから、多くの人は議論を後回しにしがちなのではないでしょうか。

けれど、igokuFesで考えました。未来だけを考えてしまうと、いまを生きている自分、つまり今この瞬間の自分という色をおざなりにしてしまうのかもしれないって。生と死を見つめることは、未来を考えることだけではなく、今の自分と対話することなんじゃないか。難しくて泥沼にはまりそうだけれど、少しずつ少しずつ考えることなのではないか。今はそう思います。

私にそう思わせてくれたigokuFesという場は、やはり「考える場」ではなく、「実感しちゃう場」であり「考えて始めてしまう場」なのではないのかなと思いました。正直、私自身、生と死、特に死を見つめることから目を反らし気味でしたが、地域包括ケア、生と死、考えると難しそうなこれらの話題の根本を見つめれば、それはありのままの私たち自身でしかないんだと思います。そんなふうに、自分なりの哲学も見つめ直せたような気がします。

小林 穂乃佳

 

不動岡高校のみんな、ありがとうございました!(編集部)

 


公開日:2019年09月18日