やっぱりいごくはいごくでした

igoku fes 2020 レポート


 

写真撮影:鈴木穣蔵

 

最初は無理だと思っていた。「密」こそが「igoku」のキモだから。igokuのキモは、オンラインでは表現できない。オンラインでは「igokuらしさ」が損なわれるだけだ。それなら、コロナを理由にやらないほうがいいんじゃないか。開催前は、そんなふうに感じていた。

ところが、それはまったくの杞憂だった。いや、憂えていたからこそ、その憂いが反転して感動に変わってしまった。すげえな。こんなことがオンラインでできんのか。igokuのクルーは、ここまでやれちゃうのか、と驚かされた。そして笑わされ、気づけば、いつの間にか、人生とか、生きるとか、死ぬとか、そういうことをぼんやりと考えていた。つまり、画面に映されていたことも、ぼくが体験したことも、まさにigokuそのものであった。コロナでも変わらなかった。やはりigokuだったのだ。

親密になることが避けられ、人と人の距離を取らなければならない時代の、「シン・密」を探すためのフェス。igoku fes 2020。いごく編集部メンバーでありながら、制作や企画にはほとんど関わらなかった小松理虔がレポートする。

 

じゃんがら念仏踊りからigoku fes 2020は始まった

 

igokuフェスについて、簡単に紹介しておこう。このフェスは、いわき市地域包括ケア推進課が主催する「生と死の祭典」である。

と書くと、ほとんどわけがわからないはずだ。地域包括ケアというのは、在宅医療・在宅介護の担い手や、地域コミュニティが連携し、だれもが望んだ場所で最期を迎えられる地域を作ろうじゃないかという福祉的コミュニティデザインの取り組みである。地域包括ケア推進課は、まさにそれを推進するためのセクションだ。高齢者の福祉を司るセクションが、「死」を掲げでフェスをやる。その時点で、何が時空が歪んでるよな…。

 

動画をクリックすると冒頭からフェスをご覧いただけます。

 

冒頭のムービーに、まず度肝を抜かれた。かつてVJだったigokuのアートディレクター、高木市之助の力作だ。地域の母ちゃんたちをネタにした映像や、じゃんがらをサンプリングしたド派手なビートが脳裏に焼きつく。「おおおおお!」と興奮しながら映像を見ていると、やがて四つ打ちのビートを引き継ぐように、リアルな太鼓と鉦の音が鳴り響く。

そしてカメラが切り替わり、ステージを映し出した。おおお、じゃんがら念仏踊りだ。

じゃんがら念仏踊りは、死者を思い、故人を偲び、弔いながら、死者と生者の「あわい」の場をつくる。と同時に、踊り、歌う「交歓」の場でもある。寂しく個人を偲ぶのではない。賑やかに歌い、踊り、地を踏みしめて死者を思うのだ。それは「フェス」そのもの。昔の人も、今の人も、死者も生者も、そうしてじゃんがらによってつながる。なんともigokuらしいオープニングではないか。

 

司会は4回連続での参加、ロクディムのお二人!

 

じゃんがらが終わると、司会の二人、即興喜劇集団ロクディムのカタヨセヒロシさんと渡猛さんが登場した。このふたりはもう4回連続での司会。igokuフェスは何が起きるかわからないから「偶然を受け止める力」が求められる。その点、ロクディムは即興演劇のチームだ。常に「何が起きるか分からない一回性」を彼らは劇に仕立てている。だから、フェスで何が起きたって大丈夫、拾ってくれる、返してくれる、という安心感がある。4年も任されている所以だな。

それでいうと、ふたりは「司会」ではあるのだけど、根本として即興喜劇の俳優だから、筋書きはあるようでない。けれど、ないようで、あるのかもしれない。彼ら二人が司会を続ける限り、igoku fesは、すべて「1回きりの喜劇」なのだ。ワクワクしないわけにいかないよな。

 

んまつーポスのダンスワークショップが始まります

 

いわきのじいちゃん、ばあちゃんとお孫さんたちが登場!

 

じゃんがらに続いて登場したのは、ダンスカンパニーの「んまつーポス」だ。今回は、いわきの高齢者と、そのお孫さんたちがペアを組み、んまつーポスとともに創作ダンスを披露するというプログラムになっている。ワークショップはすでに前もって撮影されていて、その練習風景や本番のパフォーマンスがコンパクトにVTRにまとめられていた。

参加した高齢者は、実は普通の高齢者ではない。いわき市内のあちこちで繰り広げられている健康体操「シルバーリハビリ体操」のインストラクターをしている皆さんだ。だからとにかく動きがいい。けれども、当然、若い体操選手のようにはいかない。ところどころぎこちなかったり、硬い部分があったりもする。完璧でないが故に参加者それぞれの年輪のようなものが動きから感じられるのだ。

おそらく、これまでに取り組んできた仕事や、動きのクセなどが体に刻まれているのだろう。だから、一人ひとり動きが違う。その違いがまた面白く、まさにその唯一無二の動きが美しいんだな、と思えた。それに、一緒に組む相手はお孫さんたちだ。表情がとても柔らかくなる。

孫たちを助けもし、また助けられていくじいちゃん、ばあちゃんたち。「親と子」にはない、どこかフラットな、それでいて愛が溢れるパフォーマンスになっていた。そういう場を作っているのが、んまつーポス。彼らが国際的にも評価される理由が、映像から見て取れた。

 

売れに売れている旬の芸人、松原タニシ登場

 

続いての登場は、今売れに売れている「事故物件住みます芸人」の松原タニシだ。こちらも2年連続での出演である。今回はプログラムの関係で「20分」というショートトーク。ぼくも司会として登壇した。時間が短いので、コンパクトに事故物件トークを披露していただきつつ、タニシさんの芸がいかに「福祉的」要素を持っているかという話をぶつけた。

オンラインの視聴者は、タニシさんの「怪談」を楽しみにしていたはずだ。少し申し訳ない気持ちもあったが、タニシさんの芸に福祉的な要素があるという発見を視聴者も楽しんでいるようだったし、何よりタニシさんが、嬉しい様子だった。

 

実際の舞台には緑色の布がかけられ「クロマキー加工」をして放映された

 

タニシさんは、事故物件について面白がりながら調べるうちに、「孤独死」せざるを得なかった人や、不慮の死に巻き込まれてしまった人の「生」に光を当てていく。悪ふざけしながら、芸として死者と向き合い、死という「ケガレ」を面白がり、楽しむことで、結果として、慰霊や追悼という回路につながってしまうのである。これが、タニシさんの芸が「福祉的」と言われる所以だ。20分という短いトークだったけれど、タニシさんの多層的な魅力を味わってもらえたのではないだろうか。

 

 

4つ目のプログラムは、全国各地で「終活」について講演活動を行なっている終活カウンセラーの武藤頼胡先生(以下、よりこ先生)をお招きした「終活セミナー 教えて! よりこ先生」である。一旦、タニシさんのトークを経由しているせいか、なんとなく重い「終活」というテーマも柔らかく受け止められる気がするから不思議だ。死について考える回路が、タニシさんによって開かれたからだろうね。

 

再生すると「終活セミナー 教えて! よりこ先生」から動画が始まります。

 

よりこ先生、さすがのトーク力。テンポよく終活を解説してくれた

 

好間の母ちゃんたちも生徒役で登場(笑)!

 

よりこ先生の授業には、北好間地区の4人の母ちゃんたちが登場するのだけれど、これが尋常ではない(笑)。4人とも高校生のコスプレをしているのだ。いやあ、この衣装で登場するというのがすでにすごいですよ。タレントじゃないんすよ? ごくごく普通の(いや普通ではないんだけど)母ちゃん。この母ちゃんたちに出演オファーを出す制作チームもすごいけど、それを受けて立つ母ちゃんたちも大概である。こういう元気な母ちゃんたちがいる。それが財産なんだな。

セミナーのほうは本・格・的。短い時間ながらも、さすがに全国各地を講演して回っているよりこ先生。大事なポイントを的確にわかりやすく、穏やかな声で解説してくださる。なぜ終活をするのか、なぜ生前の意思を示しておく必要があるのかななど、基本的なことをじっくり対話していく(詳しくは映像がアーカイブされてるからそれを見てくれよな)。

母ちゃんたちも次第に乗ってきて面白おかしく反応するのだけれど、その言葉は率直だ。視聴者はその声に「うちの母ちゃん」を見る。よりこ先生の言葉から学ぶだけではなくて、それを聞いて思案したり答えに迷ったりしてる母ちゃんたちを通じて学ぶのだ。

 

母ちゃんたちを通じて、学ぶ楽しさ

 

こんなふうに、igokuフェスには「想起する仕掛け」があちこちに隠されている。体験そのものはできない。人とも会えない。音の震えや声の震えを共有できないオンライン。だけれど、姿や応答や、人と人のやりとりを見て、考える。考えて、思いながら、距離を埋めようとする。今まで当たり前だった距離の近さを補うように、想像をしていくのである。

思えば、ぼくたちは、死後の世界を直接的に味わうことはできない。死について考えること。それはいつだって「想像の賜物」だ。ぼくたちは、いつも、触れることのできないものとの距離感を、想像することで縮めようとしてきた。だから! それは「コロナ禍」だってそうなのだ。人と人との距離感を想起する力で縮められるかもしれない。リモートのフェス終盤、そんなことを考えていた。

 

ロクディムの即興演劇。「1回限り」。2度と同じ時間は流れない

 

フェスのスタッフたちも「1回限り」の配信を楽しんだ

 

最後のパフォーマンスは、即興演劇集団のロクディムである。ロクディムの公演は、あらかじめ視聴者から収集しておいた「台詞」が書かれた紙を舞台上に巻くところから始まる。メンバーが即興芝居を展開するうえで、そのコメントは至る所で「決め台詞」となる。

それがドンピシャでハマることもあれば、全く違う展開を生むこともあるけれど、そこで舞台の外の人たちが介入することで、演劇に「想定外」が生まれる。絶対に想定通りには進まない。

勝手なことをやる奴もいれば、とんでもない事態になることもある。演者の誰もが想定しない台詞が読み上げられることもある。それでも、それをできるだけポジティブに受け取って、面白がって、拾って、渡して、物語にしていくロクディム。

ぼくたちはそれに似たことを震災でも経験した。コロナ禍でも経験した。明日どうなるかわからない不確実さの上を、ぼくたちはそろりそろりと歩いてきた。どれほど大事な人でも、死んでしまう時には死んでしまう。ウイルスに侵されなくても、交通事故もあれば、病気もあり、もしかしたら宇宙から落ちてきた隕石が頭に落ちてくる可能性も、極めてゼロに近いとはいえゼロではない。

ぼくたちは常に「想定外」を歩まざるを得ない。世界の不確実さ、筋書きのなさを、だからこその愛おしさを、ロクディムはいつだってぼくたちに教えてくれる。

 

リモートで考える、現場にしかない「密」

 

思えばぼくたちは、密であった時、密を思うことはなかった。それが当たり前だったからだ。密は、あって当然だった。今はそうじゃなくなった。密は、当たり前のものではない。けれども、そこで大事のは、それでもなお密を取り戻したいと思う、その気持ちではないか。

コロナ禍の対応を過度に内面化して、道徳化して、「人と親密になってはいけない」などと思っちゃあいけない。密になるなというのは、人と仲良くなっちゃダメだ、人を愛しちゃダメだ、というものに近いからだ。今は非常時だ。その振る舞いは、非常時のみ有効なのであって、非常時を脱したら、我々は密をさっさと取り戻さなくちゃいけない。だから、密を求め続けることなんだな。

オンラインでも、igokuはigokuだった。けれど、やっぱりオンラインでは、やはりigoけなかったところもあっただろう。どちらがいいというわけではなく、アンビバレントなその二つを、今少しの間、収まりが悪くとも、その両方を抱えて生きていかなければならない。

ぼくたちが考えなければいけないのは過去の密ではない。ソーシャルディスタンスを、そしてリモートを経験して初めて見えてきた密だ。ぼくたちは、コロナのおかげでようやくそれを考えられるようになったのだ。だからそれを忘れないで、いつか密を回復しても、この気持ちを忘れないでおこう。

密できなかったことで見えてきた密の価値。これからも、おりに触れて思い出そうとすること。思考を巡らせ、思い馳せ、考えること。想起することで、距離を縮め、密について考え続けること。そういうことが、今のところぼくの考えている「シン・密」である。

 


公開日:2020年12月08日