写真家として、息子として、老いを撮る

小名浜 丹 英直さん


昨年末に創刊された「紙のいごく」の後半は、写真特集「老いの魅力」。いわき市出身の写真家、丹英直さんに、ケーシー高峰さん、菅野豫さん、片寄清次さんの三人を撮影してもらい、それぞれの魅力を丹さんの視点で切り取って頂いた。そこには、三人と丹さんとの濃密なコミュニケーションの痕跡が記録されている。

その丹さん。実は、震災後、父親の介護でいわきと東京の「二拠点生活」を送っていた。プロカメラマンとしての仕事。息子としての親の介護。その両方の責任に引き裂かれるような時期を過ごしていらっしゃったそうだ。だからこそ、私たちは丹さんに頼みたかった。ご自身の親の介護、そして死を経験した丹さんだからこそ撮れる写真があるはずだと。

今思えば、そのような動機は、とても浅はかだったかもしれない。それでも丹さんは、私たちのそんな薄っぺらい「狙い」を受け止めたうえで仕事を引き受け、素晴らしい作品を残して下さった。しかし、実際には複雑な思いがあったのではないか。仕事を受けて頂いた丹さんは、今回の撮影を、どう感じていたのだろうかと、やっぱり話を聞いてみたくなった。

昨年末、「紙のいごく」の色校を出すタイミングで、私たちは丹さんとお会いすることができた。色校チェックを進めながら、丹さんは語り出す。老いと介護、そして写真。一見何の関わりのないようにも見える要素が、丹さんを介してするすると結びついていく。

植田町の植田印刷所で色校チェック。丹さんの詳細なチェックが入っていく。

撮影はとても充実した時間だった。写真の世界で圧倒的な経験を持つ丹さん。しかし、丹さんは誰かを自分の作品にするというものではなく、一人ひとりとじっくりと向き合い、話し、柔らかな時間のなかでシャッターを重ねていく。寄り添うように、そして時に挑むようにして距離を詰め、いつの間にか、丹さんの間合いのなかに、みなが包まれている。そんな撮影だった。

丹:撮影はね、楽しかったですよ。ちょうど皆さんぼくの親の世代で、皆さんそれぞれにすごいなと思う部分があって、本当に充実した時間を過ごすことができました。今までは、その道のプロの方ばかりを撮影してきて、スポーツ選手であれ文豪であれ、皆さん撮られ慣れている方ばかりだし、撮影時間も短くてね。でも、今回は皆さんとじっくり向き合うことができました。

撮影してて思ったのは、やっぱり皆さん、皆さんなりに “今このタイミングで撮られる” ということへの、なんというか悟りに近い感覚があると感じました。皆さんご高齢ですし、こういう撮影というのはそうそう機会があるわけじゃない、最後かもしれないって思っていたとしても不思議ではないはずです。だから、そう思われてもいいように、そういう気構えでぼくも撮影させてもらいました。

ただね、やっぱり包まれているような感覚はありました。自分の親の包容力に近いかな。好きなようにやっていいよ、撮りたいんでしょう? って。そういう包容力を皆さんから感じました。声に出して会話はしていなくても、目と目で話してますから。レンズは介在しているけど、分かるんです。

久之浜の海で片寄さんを撮影する丹さん。

いごく撮影班で菅野さんを囲んで一枚。楽しい思い出の一枚。

—父の介護と、遺影

丹:もともといわきには、親父の介護で戻ってきたんです。あの頃は震災直後だったこともあって精神的にもキツくてね。友人たちは、みんな東京でバリバリ仕事してるのに、ぼくはこうしていわきと東京と半分半分で。しかも、震災直後だから、自分の故郷が大変なことになっているわけでしょう。なんでいわきがこんな目に遭わなくちゃいけないんだって。

あの頃は平で個展をやってみたり、新しい人間関係を作ろうってすごく前向きにいろいろやっていた頃なんだけれど、実際にはそうして新しい空気を入れたいって必死になって思っていたのかもしれませんね。本当に大変な時期でした。

親父は、震災前に自宅で梯子から落ちてね。それでかかとの骨が砕けてしまって。高齢で入院になると、筋力がどんどん落ちてしまうし、だんだんと記憶ができなくなったり認知症のような感じも出てきて。その後、一度は退院したんだけれども、お風呂とかもなかなか自分で入れない、トイレも自分でできないという状況になってきて。自宅では厳しいなということで、施設に入らせてもらうことになったんです。

その頃、丹さんは初めて地元であるいわきで個展を開いている。駆け出しの頃にニューヨークで撮影した写真がメインだったはずだ。キャリアにも脂がのって、雑誌『Number』でバリバリ撮影されていた頃とは少し違い、初めての土地の新鮮さ、写真を撮りたいという若々しい願望や好奇心が感じられた。溌剌とした何かを取り戻したい。そんな思いが、丹さんの心のなかにあったのかもしれない。

そしてその頃、丹さんはもう一つ、写真家として、息子としての大仕事に望むことになる。

丹:ちょうどその頃かな、親父の遺影を撮ったのは。やっぱり親がね、写真家やってる息子に写真を撮ってもらうというのは、遺影を撮るというタイミングだと、父が自分なりに判断したんだと思います。自分の子どもが撮ったほうがいいな、おれもそろそろだなって。

でね、さあ撮ろうかって、いろいろな話をしながらね、親父は笑ってるんだけれど、ぼくも親父も二人して目に涙を浮かべながらね、お互いに別れが近いんだなって、目と目で会話してたんです。

だから、今回の写真も、そういう気持ちを込めて撮りました。菅野さんなんて最初は嫌がってましたから。どうしようかなあ、私の遺影写真になるのかな、なんて言ってました。だから、そんなことないよ、また機会があったら撮ろうねって、少し流すようにして受け止めてあげて。ぼくがまだ若かったら、そんなこと言われても、なんて返していいか分からなかったでしょうね。そうやって返せるようになったのも、ここ最近ですよ。父の最期を見届けたからかな。

己の死期を悟り、写真家である息子に遺影の撮影を依頼する。その時のお父さんの気持ち、そしてそれを受け止めた丹さんの気持ちを想像しようとして、なんだか目眩がするような気がした。そして、その決断の重さと引き換えの、親父と息子の二人だけの時間に思い馳せた。父との濃密な時間。そんな時間を写真家として、息子として過ごせた丹さんを、ちょっと羨ましいと思った。

丹さんが撮影したお父さんの遺影。初めてそれを見せて頂いた時、そこにいた編集部の全員が「わああっ!」と声を上げたのを覚えている。丹さんのお父さんの生き生きとした表情。声まで聞こえてくるようだった。やはり丹さんに今回の仕事をお願いしてよかったと全員が思った。でも、まさかその遺影の裏側に、そのような父と息子のやりとりがあったとは。

色校チェックの合間を縫って色々な話をして下さった丹さん。プロフェッショナルの凄みに、ただただ打ちのめされた。

そんな話をしながら、色校があがってくる。丹さんは、光にあてながら細かくチェックし、印刷担当に何度も指示を出す。肌の色つや、血色、写真全体のトーン。何枚も何枚も繰り返す。その写真は、単なる一枚の写真ではない。その方の最後になるかもしれない写真だからこそ、その人の最高の瞬間を写真に残したい、ということなのだろう。

丹さんは、今回の三人の写真を仕上げるのに、合計で数百枚は印刷したそうだ。何度も何度も何度も、そのご本人がもっとも魅力的に見えるトーンを探る。だから印刷した枚数なんて気にならない。それは写真家としては当たり前のことだよと、こともなげに語る。丹英直という写真家の本質と、プロフェッショナルの凄みを見た気がした。

丹:実はね、写真の道を選ぶ前は映画の世界に進もうと思っていたんです。浪人中ね、同級生はみんな麻雀なんかをやってて、ぼくはなんかちょっと違うなって、早く世の中に出たいなって思ってた時期で。それで、今村昌平さんが横浜に開いた映画の専門学校を受けようと思って話を聞きにいったんです。

ホールの横にある通路のベンチに座っていたら、淀川長治さんがあっちから歩いてきてね、「今日はこれ聞きにきたの?」って。それでぼくは「はい、そうです」って言って。そうしたらね「今日はぼくも呼ばれててね、色々いい話をすると思うんだけど、本当に映画をやりたいんだったらハリウッドにいきなさい」って言われてね。

でも、ぼくはハリウッドなんて行くつもりなかったし、どうしたらいいんだってすごくショックを受けてうなだれて帰ってきて。ぼくはそのとき中野に下宿していたんだけど、中野駅のプラットホームを下りて階段を通ってきたらね、目の前にどでかい広告写真、畳二帖分くらいあったと思うんだけど、浅井慎平さんが撮影したサーフィンの写真がバーーンって飾られていて、あっ、写真だって思ったんですよ、その時に。

写真ってね、よく一瞬を切り取るものだって言われるけれど、撮影されたその一瞬の時間の前後や、被写体と撮影者のコミュニケーションの痕跡とかが物語となって残るものなんです。切り取られているのは一瞬だけど、そこには物語がある。だから、写真が好きな人は、その物語とか背景とかも含めて楽しもうとするわけですよね。

いわきに帰ってきてから、友人たちの親の写真も撮らせてもらっているんだけど、例えば、その友人が「今日は丹が写真撮ってくれる日だぞ」って家を掃除して待っててくれたり、「丹が撮ってくれるんだから、親父笑えよ!」なんてみんなで笑ったり、それも記憶に残っていて、写真は一瞬だけれど、それを後から見ると、思い出すのは一瞬じゃないんです。

あの時大騒ぎしたね、あれは楽しかったねって、写真ってね、そういうものがちゃんと写るものなんです。ぼくはその思い出づくりの一部分に関わってるだけだと思ってますよ。

編集部の記録写真には、丹さんと菅野さんの「いい時間」が収められている。

—親と向き合う時間を

丹:どうしても自分の親だから、また今度でいいや、またそのうちね、みたいなものがあるのかもしれませんね。そして、だんだん親が弱ってくるのが目に見えてきて、そんなに引き延ばしできないなぁって思ってきます。それでもね、できなくていろんな問題が起きてくるものです。ぼくも実際にそうでした。

親父がどうしてほしいのか、お袋はどのような治療を望んでいるのか。財産がどうだとか、土地がどうだとか、そういうことをよく話になると思うけれども、延命治療や、最期のことを話す機会っていうのは、なかなか作れるもんじゃないですよね。

親がだんだん弱ってくるのを見ながら、親父がどうしてほしいんだろうって考えるのはやっぱり辛いことだし、親父はまだまだ挨拶とかができるのに、「延命治療をしない方もおられます」なんてお医者さんから言われたりしてね、でもそれをやったら、親父のさ、「おうっ! 今日はどうした!」って言葉を聞けなくなるんだなって、それを子どもが決めなくちゃいけないのは辛いですよ。

だからね、親と向き合って、話をする必要があるんだってことを、どこか心の中の引き出しに入れておいてほうがいいかもしれないね。

自分の父ほど年の離れた片寄さんに向かい合う丹さん。目と目で、どのような会話を交わしたのだろう。

丹:今思い返すと、遺影を撮っておいて本当によかったと思ってるんです。今でも、朝起きると「親父おはよう」って喋りかけてますよ。親父はいつも笑顔でね、やっぱり自分の親の笑顔の写真があって、毎日それに話しかけられるってのは、いいなって思います。

自分がやってきた商業写真は、1週間や半月でどんどん流れていってしまうけど、遺影は何十年もそこにあって、子どもや孫や、ひ孫も見るかもしれない、そういうものです。ずっとそこにある写真なのに、やっぱりどこかの集合写真の切り抜きじゃ可哀想かもしれませんね。

いい写真って、いい思い出を作ろうっていう気持ちの先に撮れるものだと思うんです。だから、遺影写真を撮るってことじゃなく、家族といい思い出を作ろう、たくさん話をしようって、そういう気持ちを持つことが大事だと思います。その思い出づくりの結果として、いい写真がきっと出てくる。だからまずは、みんなで過ごす時間を大切にする。それが大事なんじゃないかな。

丹さんのお父さんが、子どもの頃よく釣りをしていたという三崎公園の砂浜で。「父を連れてここに来るのは久しぶりだね」と丹さん。

インタビューをして、改めて思った。丹さんに仕事をお願いしてよかったと。「紙のいごく」を手にしたら、ぜひ写真特集ページをめくってみて欲しい。単に高齢者を撮影したようにも見える。けれど、これが遺影だったら。これが遺影になるかもしれないと悟ったうえで、三人が撮影を受け入れてくれたのだとしたら。いろいろな想像をしてみて欲しい。

私たちはまだ自分の最期も、親の最期も、想像することはあまりない。けれど、私たちの親は、私たちの知らないうちに少しずつ準備しているのかもしれない。親が死ぬことを考えるなんて縁起でもないことだと分かっている。けれど、その縁起でもないことに向き合うことは、丹さんがお父さんの遺影を撮影した時間と同じように、とてもいい時間として、家族の記憶に残るはずだ。

だとすれば、丹さんの撮影した遺影は、希望そのものではないか。

息子として、写真家として撮影した、自身の父の遺影。丹さんの自宅に飾られている。

文/小松理虔

丹さんの撮影する家族のポートレイト。撮影を通じて、また一つ、家族とともに大事な思い出が作れるかもしれない。撮影の問い合わせや過去の作品などは丹さんのウェブサイト(http://htanphotography.com)へ。


公開日:2018年01月05日

丹 英直(たん・ひでなお)

福島県いわき市生まれ。写真を学び広告制作会社勤務後、パリ、ニューヨークで写真家に師事、そして独立。10年滞在後帰国。雑誌や広告などで人物を中心にイメージ的な物、風景、スナップなどを撮影。言語は日本語、英語。趣味はオートバイ、釣り。Number、CREA、週刊文春、BRUTUS、TARZAN、SWITCH、PEN、翼の王国など名だたる雑誌に写真が掲載されている。