人は何をつくるのか

内郷白水町 渡辺為雄さん


 

 

取材・文 / 江尻浩二郎

 

すべてが手作りの私設資料館「みろく沢炭砿資料館」。年中無休、一切無料。ここにレプリカはひとつもない。すべてが本物だ。雑然と並んでいるようだが、ひとつひとつに体験談と詳細な解説がつく。こんな資料館はおそらく他にない。館長は渡辺為雄さん、御年92歳。

 

大正15年(1926)4月1日、片寄平蔵が石炭の露頭を発見した運命の地、白水弥勒沢に生まれる。父は炭鉱の岡仕事(運搬夫)をしていた。

 

ーーと、まあ。

 

通常であれば、為雄さんの記事はこんな感じで始まるだろう。なんといっても「みろく沢炭砿資料館」の館長であり、常磐炭田の語り部としては最重要人物といっていい。当然炭鉱との関わりで語られるべきである。

 

しかしその調子で進めていくとどうしても拾いきれない部分がある。実は私は、為雄さんの「ものづくり」の話がとても好きなのだ。独特の語り口と相俟って、その抜きがたい精神の躍動にいつも魅了されてしまう。よって今回は炭鉱の話を一旦脇に置き、為雄さんが一体何を作ってきたのかという話をしたい。

 

 

みろく沢炭砿資料館。かつて養鶏場だった建物が、現在は資料館になっている

 

 

発見と発明の種

 

昭和5年(1930)、数え年5つ。社長の家で「中から声がする重箱」を見た。溝が切ってあり、なにやらグルグルと回っている。「中のお人形さんが歌ってるんだ」と教えてもらったがどうしても腑に落ちず寝込んでしまった。翌日再び社長宅に行き、「中のお人形さんを見せで下さい」と懇願すると、その思いつめた様子に奥さんが驚く。「子どもが熱出すようなことを言うもんじゃない」と社長をたしなめた。蓄音機の話である。何がどのようにできているのか、納得できるまで考えてしまう子どもだった。

 

昭和7年から8年頃、三輪車が流行し、職員の子どもらがみな颯爽と乗り回していた。父にねだってみたが「あれはうんと高いんだ」と買ってもらえない。諦めきれない為雄さんは三輪車をじっくり観察した後、父のノコギリを引っ張り出して山に入る。一日がかりで車輪にするための丸太を伐り出した。火箸を焼いて根気強く穴をあけ、芯棒を通し、三輪車の形に組み上げて意気揚々とまたがった。これが大評判となる。

 

この木製三輪車は誰が言うともなく「ドヂ車」と呼ばれるようになった。あっちでもこっちでもドヂ車作りが始まった。山を二つ越えた長屋でも流行した。自分で作れない子どもは父親に頼み、父親も作れなければ大工に頼んだ。そのうち山の上では子どもらが集まって品評会が始まる。ラジエーター風の装飾を施したものもあれば、ベアリングを使った本格的なものまであった。「ずらりど並んだドヂ車がね、山の斜面を、モウモウど土煙を上げで下ってくる。まさに西部劇のようでね、それはそれは見事なもんでした」と笑う。

 

 

のちに孫のために作ったドヂ車。現在資料館に展示されている

 

 

炭鉱に関わることで食っていきたい

 

戦後、炭鉱の巻き場(石炭を積んだトロッコを巻き上げる場所)で働き始めた。当時、巻き上げの合図は小さな電球の点灯だけであったが、非常に分かりづらいため自分で工夫し、手作りのブザーをつけると会社に表彰された。

 

やがて坑内に入るようになった。ツルハシで掘っていると石炭のカケラが目に入ってしまうことがある。これを飛石といい、眼帯をかけられて4~5日も休む羽目になったりするので笑い事ではない。これを防ごうと、透明度の高い下敷きを買ってきて切り抜き、ゴム紐で簡単にヘルメットに取り付けられ、上下に動かすこともできる防護メガネを考案した。

 

 

坑内用の飛石保護用メガネ(為雄さん自筆)

 

 

 

仕事が終わればさっと外し、そのままヘルメットの中にしまっておける。これが評判となり、それを売ってくれと次々に問い合わせが来た。また選炭場の女性たちも作業中の飛石があるということで、そちらからもまとめて40枚の注文が入る。奥さんも巻き込んで、夜なべの大量生産が始まった。

 

また、当時のカンテラは光量が少なかったのでこれもどうにかしたいと頭をひねった。ステンレスを加工して工夫した反射板を作ると、これがグンと明るくなるというのでまた評判になった。注文は来るが材料がない。小名浜に海水浴に行くと水素(日本水素)で大量のステンレスの切れっ端が捨ててある。それを安く譲ってもらった。

 

パカパカと叩いて成形していては大変な手間がかかるし、精度が落ちるので反射の具合が悪い。専用のプレス機を設計して自作した。これが非常にうまくいき、またしても夜なべの大量生産が始まる。当時、坑内に下りて日給330円のところ、1枚100円という高値だったが飛ぶように売れた。

 

 

 

反射板を作るための専用の自作プレス機(為雄さん自筆)

 

 

 

その評判を聞いてよその炭鉱からも問い合わせがあり、また採炭夫以外からも注文がくるようになった。何に使うのかと訊くと、四倉の横川で「夜突(よづ)き」に使うのだという。眠っている魚をヤスで突くわけだが、この反射板を付けると光量が上がってよく見えるので非常に具合がいいとのことであった。

 

このように身の回りの不具合を改善しながら、ずっと炭鉱で食っていきたいと願っていたのだが、やがて石炭産業が斜陽化する。転ばぬ先の杖が必要だ。子ども3人を託児所に出すといくら働いても給料が飛んでしまうので、預けなくても済むように自分の家でできる商売を考えた。為雄さんが目を付けたのは、当時景気のよかった採卵養鶏である。昭和32年(1957)の話だ。

 

先立つものがないため鶏舎も自分で作り、最初は30羽のヒヨコから始めた。炭鉱で働きながらの二足の草鞋だったので毎日倒れそうだったという。昭和38年(1963)3月31日、矢の倉炭砿閉山。その失業保険が切れる頃にはなんとか開業にこぎつけた。

 

時流に乗って商売は順調だったが、やがて裕福な船方(漁師)や常磐炭鉱などが、何万羽という巨大な鶏舎を作って参入してきた。同業者があれよあれよという間につぶれていく。価格競争ではかなわないので質を上げようと考えた。三反歩の畑にソ連の健康野菜「コンフリー」を植え、それを飼料に混ぜた。鶏の状態もよくなり、長く健康で、おまけに卵はおいしいと評判になる。「人間と同じで、鶏も青物食わなきゃダメなんだね。」

 

 

 

人は何をつくるのか

 

「人間が作る最も立派なものが3つあるって言うんですが、なんだが分がりますか?」と為雄さん。見当もつかない。答えは「道」と「橋」と「井戸」だった。話がでかすぎる。だんだん外務省の国際協力みたいになってきた。

 

鶏の数が増えてくるとエサも相当な量になる。当時弥勒沢には細いトロッコ道しかなく、車は上って来られなかった。為雄さんは自力で岩盤を削って道を開くことを決意。仕事の合間を見てはタガネで岩を砕いていった。もう一度言うがタガネである。それを不思議そうに見ていた近所の子どもらが手伝ってくれたという。結局3年がかりで道を通した。

 

道ができると今度は沢沿いにぐるっと遠回りするのが不便で、いっそ橋を架けてしまえということになった。閉山であちこちに軌道の枕木がうち捨てられてある。これを安く譲ってもらい針金で括ってとうとう橋を架けた。前述の道路を「為さん道路」、この橋を「為さん橋」と言って冷やかす人もいた。

 

 

為雄さんが岩を砕いて道を広げたあたりの現在

 

 

 

水不足の問題も抱えていたので、裏山に7つの井戸を掘った。それをパイプで繋いで家の裏まで引っ張ってくると十分すぎるほどの水量になった。近所の家が使わせてほしいと言ってきたのでどうぞどうぞと使わせてやった。

 

初めて為雄さんの家でこの話を聞いたとき、私は頭がぐらぐらして何の話を聞きに来たのか分からなくなってしまった。なんというかもう、国造りの神話のようではないか。

 

 

 

 

すべてが手作りの資料館

 

最盛期には3,000羽もの鶏を飼っていた。今でも近隣の住民は為雄さんのことを「たまごやさん」と呼ぶ。

 

卵を売り歩く傍ら、炭鉱関係の古写真と古道具の収集を続けていた。玄関先において来客に見せたりしていたが、やがて養鶏を縮小すると、鶏舎を資料館にしてはどうかと思いつく。炭鉱の歴史を伝えるのは「発祥の地に住み、炭鉱に半生を送った者の責務」であると感じた。平成元年(1989)11月3日、すべてが手作りの資料館「みろく沢炭砿資料館」をオープン。資料収集を始めてから20年の歳月が経っていた。

 

資料館に飾ってある弥勒沢のイラストマップは為雄さんの自筆である。プロに頼むのが高額だと分かり「じゃあ自分で描ぐがと思ってね。絵なら小学校の時描いたごどあったもんで」。さらりと言われて驚いたが、そうだ、私たちは大抵のことを小学校で教わっている。「手作り資料館てのは何でも自分でしなきゃダメ。これが掟だ。金持ってる訳ねーんだがら」と笑う。こういう話をするときの為雄さんは本当に楽しそうで、話を聞いてるこちらもなんだか嬉しくなってしまう。

 

 

為雄さんによる手描きのイラストマップ。圧巻の情報量

 

 

 

現在資料館前に設置されている巻き上げ機も為雄さんが修理したものだ。内郷宮町のほうで雨ざらしになっていたのを見つけ、持ち主に声をかけて安く譲ってもらった。モーターは外されていたし、部品が失われていたところも多かったが、手間暇かけてなんとか動かすことができた。現在みろく沢炭砿資料館では、巻き上げ機の現物で、実際に巻き上げ士であった為雄さんによる、巻き上げ作業の実演を見ることができる。素晴らしいの一言だ。

 

 

巻き揚げ機の前で解説する為雄さん

 

 

昨年行われた「しらみずアーツキャンプ」での一幕。為雄さんによる解説

 

 

 

 

6年の歳月をかけた写真集

 

資料館なら写真集が欲しいと考えた。収集した写真を整理するうち、これは一体どこなのかと疑問がわき、同じ場所の現在の写真も載せることに決めた。様子は全く変わってしまっている。山の稜線が頼りだ。ひとつの場所を特定するのに2か月かかったこともある。

 

パソコンを覚え、レイアウトも自分で手掛けた。事実誤認があっては申し訳ないということで、文中で言及する人物についてはすべて親族に確認をとった。その数63名。その誠実さに胸を突かれる。

 

平成14年(2002)1月、構想から6年の歳月をかけ、完全自費による「みろく沢炭砿資料館写真集」を刊行。1,000冊限定、カラーA4版で収録写真1,200点。採算度外視で定価は6,000円であった。たちまち評判となり、第18回報徳出版文化賞優秀賞を受賞。この稀有な写真集は現在残部がなく、市内の古書店にもまず出て来ない。

 

 

みろく沢炭砿資料館写真集。いわき市の図書館には収蔵されている

 

 

幼き時より何かを作り続けてきた為雄さんの手

 

 

 

その後も資料館を充実させるための作業が続いている。平成19年(2007)には資料館から最も近い石炭の露頭を整備。また最近では、長年の課題であった蒸気機関の精密な模型を50年越しで完成させた。その創作意欲は衰えない。

 

「今は何か作ってるんですか?」と訊いてみた。為雄さんは珍しく少しはにかむように間をおいてから、こんなことを言うのだ。

 

「半導体ね。あれはあんなに小さくてどんな風になってんのがと思ってね。研究始まったんだ。本も2冊買ってきて、1冊は簡単な本で、もう1冊は専門的なやづでね。数式どがは難しいげども、5回読んだらなんとが概略は分がったんで、釜の前にある電子工場に入ってね、一回見せでもらいでーなど、こう思ってんです。」

 

最後にまた一段と嬉しくなってしまった。蓄音機を見て寝込んだ少年は、いま、半導体の夢を見ている。

 

 

 


公開日:2019年04月03日

渡辺 為雄(わたなべ・ためお)

1926年白水弥勒沢生まれ。みろく沢炭砿資料館館長。