みんなといっきあう、全てはそこから

下三坂 西村 キミさん


いわき市の北西の端、といえば分かりやすいだろうか。いわき市と小野町との境に位置する三和町下三坂地区。国道49号線を平方面から郡山方面に走り3〜40分。国道349号線が交差する少し前で国道を逸れて北上し、しばらく車を走らせるとたどり着く。

いわき市中心部に暮らす人たちにとっては、ちょっと縁遠い地区かもしれない。何しろ遠いのだ。国道49号線と磐越自動車道に挟まれた「幹線道路の空白地帯」でもあるため、ドライブ中通過することすらほとんどない。中心部から下三坂にやってくると、いわきってほんと広いなあと、純粋に思えるはずだ。

しかしこの地区、「地域包括ケア」の最先端を走る地区でもある。月に一度、下三坂の集会所に高齢者が集まって開催されている「つどいの会」は、もともと30年近く前から存在しているという。当時は「下三坂ふれあいの会」という名前で、隣接する沢渡地区や永井地区でも開催されていた。地域の人たちが顔を合わせ、持ち寄った料理を食べたり、地域の収穫やお祭りの話をしたり、レクリエーションしたり。ほとんど現在の「つどいの場」と変わらない催しが行われてきたそうだ。それこそ、「高齢化社会」が始まる前から、当たり前に。

周囲を美しい山に囲まれた下三坂。集会所はなくてはならない存在だ。

下三坂のつどいの会。何十年も当たり前のように繰り返されている光景だ。

当時からその「ふれあいの会」に関わってきたのが、今年94歳になる西村キミさん。この日のつどいの会でも、ゲームをしたり、おしゃべりをしたり、月に1度の会を楽しんでいた。

「私はもともと民生委員をしていてね、それで『ふれあいの会』のお手伝いをするようになったんです。始まったのはもう50年も前。地域の人たちがみんな顔をあわせる機会ってあるようでないでしょう。特にここは交通の便も悪いし、みんなで集まって、お互いに様子を確認することが大事だと、そういうことで始まったんです」。

民生委員とは、自治体と地域の住民のつなぎ役として、住民の生活状態を必要に応じて適切に把握したり、生活の自立支援のための相談や援助を行うことを職務としている。そこに暮らす人だから、役場の担当者よりも密接に地域に入り込んでいるし、それだけ住民側のニーズを行政に伝えやすい。今時の言葉を使えば「ソーシャルワーカー」であり「コミュニケーター」でもある。裏方として地域を支える、とてもとても大事な仕事だ。「民生委員法」が制定されたのが1948年(昭和23年)。キミさんは、その頃からずっとずっと、地域の住民の暮らしを見守ってきた。

「当時から開催されて来た『ふれあい会』は、三和のそれぞれの地区でやられてたの。下三坂、上三坂、沢渡とか永井とか、それぞれの部落でね。でも、長く続けるうちに、やる人がいなくなったり、住民が減ってしまったりして途絶えちゃったところも多いですよ。今はまた少しずつこうして「つどいの会」が行われるようになったけれど、今まで途切れることなくやってきたのは下三坂くらいじゃないかしら」。

取材に応えて下さったキミさん(右)。今年94歳になる。超絶元気なおばあちゃんだ。

なぜ下三坂では「つどいの場」が30年以上も続いてきたのか。答えは簡単だ。キミさんがいたからだ。キミさんが地域の主婦たちの顔役として、地域を切り盛りしてきたからこそ、キミさんの呼びかけに地域の人たちが呼応して、こうして30年もつどいの場が作られ続けてきた。

会場にいたお母さんたちにキミさんのことを伺うと、皆さんどこか少し誇らしげにキミさんの話をして下さる。今でこそ「可愛いおばあちゃん」として愛されているキミさんだが、地域の人たちには、バリバリの民生委員として地域を支えてくれたことに対する「感謝」や「尊敬」の気持ちもあったように思う。いるんだなあ、いわきには、こういう方が。

三坂の生まれですかと伺うと、キミさん、生まれ育ったのは中之作だそうだ。民生委員法が制定された昭和23年ごろ、ちょうど、この下三坂に嫁いできたのだという。港町から、山間の山村へ。暮らしぶりの変化はいかばかりか。

「当時の中之作は、遠洋漁業とか北洋漁業が盛んだったでしょう。だからとっても賑やかでしたよ。やかましいくらい。こっちに来てからは、本当に静かで暮らしやすいですよ。農家が多いから、助け合ったり何かを融通するのは普通だし、雪も降るでしょう、だから四季がとってもハッキリしていてね。本当にいいところですよ、下三坂は」(キミさん)。

キミさんは、三和が好きだ、とは言わない。もちろん「福島」や「いわき」ですらない。あくまで「下三坂」なのだ。部落や集落といった「小さな生活圏」が、キミさんたちの暮らしのなかにしっかりと根付いているからだろう。その考え方は、まさに「地域包括ケア」の考え方とも共通する。市民会館や公民館ではなく、部落や集落に根ざした「集会所」こそを、地域の人たちの長寿と健康を支える場として活用し、コミュニティを再生していく。70年前、下三坂に嫁いできて、そして「ふれあいの会」を始めようとしたキミさんたちが思い描いたことは、今に繋がっているのだ。

会が終わると、じっくりと私たちの質問に耳を傾けて下さった。

会に集まる皆さんは私服だが、キミさんはいつでもお手伝いできるようにとエプロンをつけていた。

下三坂のこの日の「つどいの会」のレクリエーションはボードゲーム。カードを積み木のように積み上げたり、クイズの要素が入ったものだったり、ちょっと体を使うものもある。キミさんのグループは、女性3人と男性2人のグループで、失敗しても成功してもみなさん楽しそうにゲラゲラ笑っていて、思わずこちらも交ぜて欲しくなってしまった。

他のふたつのテーブルもそう。思い切り楽しんで、みんなでみんなの健康を確認しあって、そこはかとなくご近所の人たちに目を配り、お弁当をみんなで食べて、そして帰っていく。

つどいの会には、キミさんのお嫁さんも参加するようになった。最年長のキミさんをサポートしようと、若い世代(といっても60代だけど)も積極的に場作りに奔走している。こうしてキミさんの精神は、地域に引き継がれていくのだろう。会が終わって、改めてキミさんにご長寿の秘訣を伺ったら「みんなでこうしていっきあって楽しい時間を過ごせるからかしら」と一言。

レクリエーションのあとはみんなでランチタイム。お味噌汁だけは、みんなでつくる。

そうなのだ。高齢者が病気にならないようにとか、病気や障害を抱えた人を地域で支えるとか、そういうことじゃなく、シンプルに「みんなと会って楽しく過ごす」。そしてそれが結果的に、自分を含めた誰かの幸せを考えることにつながる。結局、福祉とはそういうことなのではないか。

そんなことを、キミさんと三坂の皆さんに教えて頂いたような気がする。福祉ってなんだろう、地域で暮らすってどういうことなんだろうという、これからの現代人の多くがますます直面することになるであろう根源的な問い。その問いに対するひとつの答えが、住宅地から離れた、この下三坂にはあるようだ。

文/小松理虔
写真/渡辺陽一・小松理虔


公開日:2017年09月18日

西村 キミ(にしむら・きみ)

いわき市中之作生まれ。下三坂在住。40年ほど前から民生委員として地域の暮らしを守り続けてきた。民生委員を退いた今も、つどいの場で存在感をアピールし続けている。