なぜ下三坂では「つどいの場」が30年以上も続いてきたのか。答えは簡単だ。キミさんがいたからだ。キミさんが地域の主婦たちの顔役として、地域を切り盛りしてきたからこそ、キミさんの呼びかけに地域の人たちが呼応して、こうして30年もつどいの場が作られ続けてきた。
会場にいたお母さんたちにキミさんのことを伺うと、皆さんどこか少し誇らしげにキミさんの話をして下さる。今でこそ「可愛いおばあちゃん」として愛されているキミさんだが、地域の人たちには、バリバリの民生委員として地域を支えてくれたことに対する「感謝」や「尊敬」の気持ちもあったように思う。いるんだなあ、いわきには、こういう方が。
三坂の生まれですかと伺うと、キミさん、生まれ育ったのは中之作だそうだ。民生委員法が制定された昭和23年ごろ、ちょうど、この下三坂に嫁いできたのだという。港町から、山間の山村へ。暮らしぶりの変化はいかばかりか。
「当時の中之作は、遠洋漁業とか北洋漁業が盛んだったでしょう。だからとっても賑やかでしたよ。やかましいくらい。こっちに来てからは、本当に静かで暮らしやすいですよ。農家が多いから、助け合ったり何かを融通するのは普通だし、雪も降るでしょう、だから四季がとってもハッキリしていてね。本当にいいところですよ、下三坂は」(キミさん)。
キミさんは、三和が好きだ、とは言わない。もちろん「福島」や「いわき」ですらない。あくまで「下三坂」なのだ。部落や集落といった「小さな生活圏」が、キミさんたちの暮らしのなかにしっかりと根付いているからだろう。その考え方は、まさに「地域包括ケア」の考え方とも共通する。市民会館や公民館ではなく、部落や集落に根ざした「集会所」こそを、地域の人たちの長寿と健康を支える場として活用し、コミュニティを再生していく。70年前、下三坂に嫁いできて、そして「ふれあいの会」を始めようとしたキミさんたちが思い描いたことは、今に繋がっているのだ。