生きて行くし、死んで行く

追悼:みろく沢炭砿資料館館主、渡辺為雄さん


 

 

渡辺為雄さんが永眠されました。

 

7月17日夕方、仏壇の前で座布団を枕にしていた為雄さんは急に具合が悪くなり、市内の病院に入院するとその後は自宅に戻ること叶わず、8月26日午前1時27分、静かに息を引き取りました。享年94。

 

葬儀は近親者のみで執り行われましたので、後日ご焼香に伺いました。遺影は一番お気に入りの帽子を被った少し若い頃の写真で、私が知り合うよりかなり前の為雄さんでした。背景は資料館の裏一面に咲いていた菜の花です。本祭壇の写真を見せていただいたのですが、なんと山々に登っていく石炭のトロッコがあしらわれていました。みんなで相談して飾ったのだそうです。なんと気持ちのこもった祭壇でしょう。

 

 

 

 

為雄さんは山登りが大好きで、若い頃の文章を読むと山々の情景を綴ったものが非常に多いです。喪主である息子さん(次男)とは初対面でしたが、お名前は秀峰と書いてヒデミネさんでした。「名前負けしますよ」と笑ってらっしゃいましたが山好きの為雄さんらしい素敵な名前だと思います。昨年亡くなられたご長男は俊峰と書いてトシミネさんだそうです。

 

「資料館のほうも見て行ってください」とおっしゃるのでのぞいてみると、新しい展示台が置かれていて、為雄さんを偲ぶ特別な展示がされていました。随分丁度いいサイズの台だなあと思いましたが、訊けば息子さんが一昨日ご自分で作ったものだそうです。やはり血は争えないというか、息子さんも何でも自分で作ってしまう方なのでした。

 

展示の中で一番最初に目に飛び込んできたのは一昨年のigoku表彰について書かれた「紙のいごく」でした。それにトロフィーとigokuキャップが添えられています。為雄さんはこのキャップを大変気に入ってくださり、来館者のガイドをする際も被っていてくれたとか。新品ピカピカのままより、その使い込まれた様子が非常に嬉しく感じられました。

 

 

 

 

 

遺品の一つに自分で和綴じした手作りの冊子があり、それは私も初めて見るものでした。タイトルは「山」。昭和40年ごろに書かれたもののようです。スケッチなども織り交ぜながら、エッセイ、雑歌、短歌、川柳、さらに童話と、全編創作の喜びに満ちあふれた素晴らしい冊子ですが、山折りのページの破れたところをめくってみると、それは炭砿時代の帳簿の裏紙なのでした。そこまで含めて為雄さんらしい、なんとも愛おしい作品です。

 

 

 

 

 

私はいろいろな調査で亡くなった郷土史家の方などの親族を訪ねることがありますが、ほとんどは生前の資料を破棄されてしまいます。為雄さんについても恐る恐る訊いてみましたが、「直筆のものは全部取っておこうと思います」と力強くおっしゃられていて安心しました。手帳や広告の裏などに書き留められた文章もいくつか出てきたそうです。

 

私は為雄さんの私的スクラップブックを貸していただいたことがあり、炭砿時代の同人誌なども含め、為雄さんの文章はかなり読んでいるほうだと思いますが、まだまだ知らないテキストがあるということが嬉しく、その展示の古い冊子もその場でむさぼるように読んでしまいました。

 

 

 

 

「冷たいものでもどうですか」と息子さんがオロナミンCを持ってきてくださいました。為雄さんといえばオロナミンCで訪問するたびに何度もいただいています。一瞬時間がねじれたような奇妙な感じがして笑ってしまいました。

 

息子さんは現在資料館となっている旧鶏舎のある場所を指さして「ここまでは私が小学校3年生のときに作ったんです。あとは(ギザギザの屋根を単位として)2つずつ足していったんじゃないかな。子どもの時はずいぶん大きく見えたけど、今見るとね」

 

「鶏舎はそこにひとつ、あとあそこ、そこには2列あって、60日までのヒヨコはそこ、120日まではこことそっち、そして卵を産むようになるとここに入れたんですね。テレビでイソジンみたいなうがい薬が話題になると、成分を考えて薬品を買ってきて、水に溶いてそれをニワトリに飲ませたりもしてました。のどを焼くんでね、病気の予防になったんです。あとは山の腐葉土を餌に混ぜて食べさせたりね。私が毎朝とってくるんですけど、学校は遅刻ですよね」

 

為雄さんの知らないエピソードがどんどん出てきます。「今度ぜひゆっくりお話聞かせてください」というと、「まだまだいろんな話がありますよ」と懐かしそうに微笑まれました。

 

 

 

 

「家を出るときにね」と今度は娘さん。出棺の話です。「運転手さんに頼んで、ここをゆっくりね、2回大きくまわってもらったの。(みろく沢が)よく見えるようにね。そしてそのトロッコのベルをジンジン鳴らしてね、そうして送ってやったの、涙が出るようでした」

 

ご存じの方も多いでしょうが、実際に巻き上げ士でもあった為雄さんによるトロッコ巻き上げの実演は、何と言ってもこの資料館の一番の目玉でした。そうか、為雄さんはあのベルに送られていったんだな。

 

「(棺桶には)お気に入りの帽子を入れてやってね、あとは今年獲れた菜の花の種と、あと、石炭をね、握らせて、そうして行ったんです」

 

為雄さんはお気に入りの帽子を被り、資料館の裏手一面に咲かせていた菜の花の種を携え、故郷みろく沢の石炭を握りしめて旅立ったのでした。

 

 

 

 

 

 

突然ですが、私は人が死ぬことに淡白な人間です。なぜかと考えると15の時に父親が自宅作業場の事故で即死したからだと思います。さっきまでそこを歩いていた人間があっさり死んでしまうというのは大変な不条理で、なんとかそれを自分に納得させる必要がありました。その結果私は自己防衛的に、生死の区別がかなり曖昧な人間になってしまったようなのです。死んだことなんて大したことじゃない。生きてるか死んでるかは決定的な違いじゃない。生きてるし、死んでるんだと。

 

私が普段、慰霊とか供養とか、神様がどうしたとか仏様がどうしたとか、たいして信心が深いわけでもないのにそんなことばっかり関わっているようなのは、要するに死者とどう向き合っていけばいいのか、今でもよく分かってないからなのでしょう。他の人たちは一体どうしてるのか、昔の人たちはどう考えていたのか、そういうことに何か手がかりを求めたいのだと思います。

 

あまりメディアには取り上げられないことですが、為雄さんは実に信心深い方でした。二人きりになると必ず神仏や死者の話になり、時間を忘れて話し込むこともしばしばでした。よく口にされた言葉は「先人への感謝と供養」そして「未来の子どもらのために」。為雄さんの話では「時間」や「人」や「場所」が軽やかに飛躍します。そのすべてと、為雄さんは一緒に生きているし、一緒に死んでいるのだという不思議な感覚がありました。

 

 

 

 

追悼で展示されていた「紙のいごく」vol.7の中で、私はこのように書いています。

 

― 百年後、為雄さんの肉体はもちろんない。しかし為雄さんのような誰かはきっとそこにいるだろう。しかもそれは一人ではない。複数だ。そのようにして為雄さんの「いごき」は連綿と受け継がれていくのだと思う。

― 為雄さんは未来へと続いている。私ももう、その流れに巻き込まれてしまった者の一人だ。

 

大変奇妙なのですが、為雄さんが亡くなって、今までよりさらに身近に感じているような気がしています。これは一体なんなのでしょうか。ふわふわとした気持ちのまま、一日、また一日と過ぎていきます。私は為雄さんの流れに、さらに大きく巻き込まれているようなのです。これからも私は、為雄さんと一緒に生きて行くし、そして死んで行く。為雄さんの向こうに見え隠れする何かとも、生きて行くし、死んで行くのだと思います。

 

というわけで為雄さん、まだまだお世話にならなければいけません。聞きたい話もたくさんあります。相談したいこともたくさんあります。なにぶん、為雄さんの半分ほどしか生きていない若輩者ですので、この娑婆世界で右も左も分かりません。しかし恐れず進みたいと思います。一緒に未来を見に行きましょう。今後とも何卒ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

 

 

 

文:いごく編集部 江尻浩二郎

 

 

 

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以下、追悼の意を込めまして、「紙のいごく」vol.7 「白水の千年を生きる」を全文転載いたします。よろしければご一読ください。

 

 

 

 

 白水の千年を生きる ~為雄さんのいごく表彰に寄せて

 

発祥の地に住む者として

 

渡辺為雄。93歳。大正15年4月1日、片寄平蔵が石炭の露頭を発見した運命の地、白水弥勒沢に生まれる。父は炭砿の岡仕事(運搬夫)をしていた。人の為になるよう「為雄」と名づけられた。尋常高等小学校を出て旋盤工として働いていたが、昭和19年12月、志願して陸軍少年飛行兵学校へ入隊。10か月後終戦となり、帰郷して炭砿の仕事に就いた。

 

「坑内で働くな」という父の遺言を守り、最初は捲場で働いていたが、所帯をもって子どもができ、賃金のいい先山夫となった。やがて石炭産業の衰退を感じ、副業で採卵養鶏に挑戦。先立つものがなく鶏舎は自作した。昭和38年、矢の倉炭礦閉山。その失業保険が切れる頃、なんとか開業にこぎつけた。最盛期には採卵鶏二千羽。今でも近隣の人たちは為雄さんのことを「たまご屋さん」と呼ぶ。

 

ある日の行商後、図書館で手に取った片寄平蔵の伝記に人生を変える一枚の写真があった。自分が生まれるずっと前の弥勒沢の写真である。「父や母がまだ若い頃の炭砿の暮らしの匂いがプーンとしてきた」と言う。何か月も手元に置き、細部の細部まで見入った。やがて為雄さんは古写真の収集に乗り出す。卵を売り歩くかたわら昔の炭砿仲間を訪ね歩き、古い写真があればカメラで複写した。

 

古写真と共に炭砿用具も集め始めた。玄関や軒先に置いて来客に見せたりしていたが、やがて養鶏を縮小すると空いた鶏舎を見て思いついた。ここを資料館にしてはどうだろう。炭砿の歴史を伝えるのは「発祥の地に住み、炭砿に半生を送った者の責務」なのではないか。

 

平成元年11月3日、すべてが手作りの私設資料館「みろく沢炭砿資料館」をオープン。年中無休、入場無料。ここにレプリカは一つもない。すべてが本物だ。雑然と並んでいるようだが、その一つ一つに詳細な体験談と解説がつく。その情報量、圧巻であった。

 

 

感謝と供養の先に

 

資料館の館長というのは「霊界と娑婆世界のつなぎ役」なのだと為雄さんは言う。今の暮らしがあるのは先人たちのおかげである。特に石炭産業には多くの犠牲があった。度重なる事故で非業の死を遂げた人も多い。それを忘れてはならない。為雄さんのまちづくりとは「まず感謝、そして供養」なのである。

 

弥勒沢の「地獄」と呼ばれる辺りには「姥捨て」の言い伝えがある。そう遠くないというので一度お言葉に甘えて連れて行ってもらった。為雄さんは子どもの頃、そこの岩肌に火を焚いた煤の跡を見たことがあり、「姥捨て」は事実だったのではないかと考えている。その場所に昨年、市のアートイベントで多くのカカシが展示されることとなった。旧産炭地の方々が作った生活感あふれるカカシが、木々の間に賑やかに飾られた。

 

後日その話になると、為雄さんは突然言葉に詰まり、目を潤ませた。大勢のカカシさんたちが二泊三日で遊びに来てくれて、皆さんさぞかし慰められたことだろうと言う。為雄さんの中にはずっと、そこに捨てられた人々の悲しみがあった。

 

為雄さんと話していると、「時間」や「人」や「場所」が軽やかに飛躍する。そのすべてと、為雄さんは一緒に生きているのだと思う。為雄さんは過去の声を聞いている。そしてまずいごいてしまう。その姿に皆が引き寄せられる。百年後、為雄さんの肉体はもちろんない。しかし為雄さんのような「誰か」はきっとそこにいるだろう。しかもそれは一人ではない。複数だ。そのようにして為雄さんの「いごき」は連綿と受け継がれていくのだと思う。

 

 

白水の千年を生きる

 

遠く平安の昔、ここ白水に阿弥陀堂を中心とした浄土庭園が築かれた。以来この地は、一木一草ことごとくに仏性のある「仏の里」である。

 

江戸末期の白水村は、主だった農家が33戸だったという。弥勒沢には人家がなかった。そこへ山芋掘に身をやつした片寄平蔵がやって来た。石炭が発見されると急速に開発され、最盛期には弥勒沢だけでも30を越える坑口があった。少しでも平地があれば長屋が建ち、中小零細炭砿が日々興亡を繰り返していた。

 

やがて衰退。当時この沢には狭いトロッコ道しかなく、車は上がって来られなかった。一念発起した為雄さんはタガネとツルハシで岩を打ち砕き、自ら道を切り開いてきた。堀には橋を架け、また井戸を掘って近隣の人々に提供した。しかし時流には逆らえない。しだいに人が去り、物は消え、気づけば為雄さんの家一軒だけになっていた。

 

のちに資料館を構えると、打ち捨てられていた捲揚げ機を修理し、石炭の露頭を整備した。開館20周年を迎える頃、その価値を認めた行政が動き、幅の広い舗装道路が敷かれることとなった。その道を大型観光バスが上ってくる。為雄さんは万感の思いでそれを見つめた。

 

為雄さんと話すとき、私は為雄さんとともに白水の千年を生きている。そして常磐炭田の栄枯盛衰に翻弄される。いごいて、いごいて、いごき抜く人を称えるのが「いごく表彰」なら、このいわきで為雄さんを差し置くわけにはいかない。その「いごき」の先に、まだ生まれぬ多くの「いごき」が見える。為雄さんは未来へと続いている。私ももう、その流れに巻き込まれてしまった者の一人だ。

 

 

紙のいごくVOL.7より 文:江尻浩二郎

 


 

いごく編集部では、2019年の「いごくフェス2019」において、渡辺為雄さんに賞を送らせていただきました。歴史を通じて地域に向き合い、その成果を多くの人たちに開こうと取り組みは、いわき市民に広く語り継がれるべき活動だと感じていたからです。為雄さんは、地域の文化とは、歴史とは、慰霊とは。さまざまな問いに向き合い、未来を耕し続けて来られた方でした。

そのフェスの時に放映したムービーを掲載します。為雄さんの活動、みろく沢炭鉱資料館の様子をシンプルにまとめました。

 

 

こちらは、その表彰式での模様。為雄さんは、わざわざ直筆で謝辞を書いてくださっていました。それを読み上げる様子を収録したものです。為雄さんの言葉ひとつひとつに、地域に対する為雄さんの思いが込められているような気がします。こちらも合わせてご覧下さい。

 

 

為雄さんの、歴史や技術を紐解こうという好奇心や、亡くなった人たちを忘れずに弔おうとする信心、何百年という歴史を往還する視野、そしてそれらを地域の根幹に据えるのだという覚悟と継続力。わずかでも、引き継いでいけたらと思っています。

いごくは、地域のレジェンドたちと一緒になって地域を考える取り組みです。昨年のケーシー師匠に続き、今年も、為雄さんを見送ることになりました。まだまだ私たちに厳しい指導をお願いしたいときに、こうして大きな柱を失ってしまうのは痛恨の極みですが、残されたわたしたちにできることはなにかを考え続けていきます。

為雄さん、ほんとうにおつかれさまでした。

いごく編集部


公開日:2020年09月03日