いわき市は2025年に高齢化率がピークを迎え、3人に1人が高齢者となる 。私たちは市役所の地域包括ケア推進課という部署で、この「超高齢化社会」に向き合っている 。市が目指すのは「地域包括ケア」。難しい言葉に聞こえるかもしれないが、要は「自分が望む場所で最期まで暮らせる」まちを、みんなで創っていくことだ 。
でも、行政が作る計画書やパンフレットは、それだけではただの紙だ。その紙を「生きた」ものに変えるのは、いつだってまちの「いごき」—つまり、誰かの小さな「動き」だ。だから私たちは、その「いごく」人を探し、その物語を伝えている 。
今回、私たちが話を聞きたかったのは、栗崎透(くりさき・とおる)さん。平の「Kurisakiワインと料理」 のオーナーシェフだ。2023年5月まで、彼は「レストランシェ栗崎」として南白土で30年間、いわきを代表するフレンチの店を営んできた 。
その場所がいま、いい意味でとんでもないことになっている。
かつて静かにワイングラスが交わされたその場所に、いまは子ども達の「ただいま!」という声が響き渡り 、認知症の家族が悩みを分かち合う「つどいの場」となり 、そして、認知症の人が自らホールに立つ「注文をまちがえる料理店」 の舞台にもなった。
一体、何が起こっているのか。
シェフとお店に起きたその「怒涛の展開」 を聞きに行った私たちは、これは「介護」の話を超えた、ひとつの「コミュニティ」が生まれる瞬間の、鮮やかな記録だと知った。
一人のシェフが、人生最大の危機を「開く」ことで、すべてを「食」の力でつなぎ直していく物語だ。
ふたりで築いたレストランと、山のブログ
「出身は?」の問いかけに、「どっぷり小名浜です」。栗崎さんはそう言って笑う。小名浜で育ち、大学で東京へ。籍はあっただけ、と笑う大学時代に、バイトで飲食の面白さに目覚めた 。
「お客さんと接してて、喜ばれるってごどがな、それが楽しかった」。それなら一生の仕事にしよう。自分で作る側になろう。そう決めた 。
栗崎さんのキャリアのスタートが、彼らしい。いわゆる高級ホテルの厨房で「ずっと野菜洗ってだりして」何年も下積みする道は選ばなかった。「レストラン回った方が早いぞ」という先輩の助言通り、東京の「街場のレストラン」をいくつも渡り歩き、実践的なフレンチの技術を猛スピードで吸収した 。
そして6年後、26歳でいわきに戻り、谷川瀬(現在のミスタードーナツの隣)にいきなり自分の店を開いた 。
38年前のいわきでのフランス料理店。それは「まあ大変でした」の一言に尽きる。まだ郷ヶ丘を通るトンネルも開通しておらず、店のある場所は「ただの行き止まりだった」。当然、最初は苦戦した 。
その苦戦していた店が、軌道に乗り出すきっかけ。それが、奥様・容子(ようこ)さんの存在だ。
東京でOLをしていた容子さんとは、神津島で出会った(「ナンパしたっていうが(笑)」) 。店を始めて半年後に結婚し、彼女が店にやってきた。まったくの素人だった容子さんは、当初ホールを手伝ってくれていた方(元ニューオータニのバーテンダー)から、接客のイロハを学んだ 。
「あどはやっぱ妻が入ってくれたのは大きいですね。女性の目(視点)が入ったっていうのは、全く違うね」。栗崎さんは、そう断言する 。
容子さんが加わったことで店は安定し、5年後には南白土へ移転。前の倍以上のキャパシティになった店は「忙しかった」 。
ここからが、今回の記事のポイントかもしれない。栗崎さんの現在の「怒涛のつながり」の原型は、すべてこの時期の容子さんの「いごき」の中にあった。のちに回収される、壮大な伏線だ。
容子さんは、ただ店を手伝っていただけではない。彼女は自ら学び、資格を取り、レストランという「点」を、いわきの「コミュニティ」へと広げる「線」を引く人だった。
まず、彼女は「シニアソムリエ」の資格を取得した 。そして、彼女が主導する「ワインの会」を始めた。この会は形を変えながら20年以上続き、栗崎さん曰く「その勉強会がら、いわきでソムリエさんが3人かな、出で」。ただ飲むだけの会ではない。人を育て、つながりを生むコミュニティだった 。
もう一つ、彼女は「山のブログ」を熱心に書いていた。登山が趣味のご夫婦、山に登るたび、写真を撮り、マメにブログを更新した。それもそのはず、彼女は東京時代、企業でカタログや社内新聞を作る広報関係の仕事をしており、発信のプロだったのだ 。
そのブログは、いわき中の登山好きに読まれていた。やがて「オフ会やりましょう」という話になり、そこから「山男山女の会」というグループが誕生し、今も続いている。いわき山岳会の人からも「あ、あのブログの人だね」と声をかけられるほどだったという 。
ソムリエとして、ブロガーとして。容子さんは、その知性と発信力で、レストランの周りにいくつもの温かいコミュニティを育んでいた。
「レストランシェ栗崎」の成功は、栗崎さんの「料理」と、容子さんの「つながり」という、二つの車輪によって築かれたものだったのだ。

インタビューに応える栗崎さん。Tシャツのバックプリントも登山
七顛八倒のすえに辿り着いた「写し鏡」
その日常が、少しずつ揺らぎ始める。
「今言ってだごどを繰り返すんですよ。『さっきそれ言ったんだよ』って言っても『え、言ってないよ』って言うがら」 。
プロ中のプロだった容子さんが、お客さんのオーダーを「出したが出さないが分がんなぐなる」と言い始めた。メモはあるのに、出していない。「これまだ出でないよ」「え?」 。
最初は、栗崎さんも戸惑い、怒ってしまった。「なんでお前こんななんだよ」。病気だとはわからないから、「言い争いばっかりになってるし」 。
病院で脳の写真を撮った。だが、医師は「映像では全くなんでもない、認知症じゃない」と 。
しかし、栗崎さんの「絶対おかしい」という直感は消えない。3ヶ月後、改めて別の医師に相談し、長谷川式スケールなどの問診も受けた。その結果、医師は栗崎さんにこう告げた。「映像では出でないけど、アルツハイマー型認知症だと思う」 。
容子さん本人は「私を病気扱いしてるの? 何でもないのに」と、病院に行くこと自体を拒むこともあった 。このやり取りは、他の認知症の家族を持つ方から何度も聞いてきた、あまりにも切実で、胸が詰まる現実だ。
診断が確定した後、「暗中模索」の日々が始まる。
市役所で「地域包括ケア」を担当する私たちにとって、彼が次に語ったエピソードは、これまでの取り組みを振り返らざるを得ないほどの衝撃だった。
「その時に病院には、『家族の人の相談窓口や本人が集う会とかなにかないんですか?』って聞いだんだげど、ないって言われた」 。
栗崎さんは、最も重要な局面で、最も必要としていた「認知症」に関する情報を、尋ねたにもかかわらず、得られなかった。
彼は、私たちの目の前で「医療と介護はつながってないからしょうがないんでしょうけど、相談先をはじめ認知症に関する情報やヒント全般に辿り着けなかった」 と言った。
これは、特定の病院を「ディスる」話ではまったくない。私たち自身が発行する認知症支援のパンフレットを机に置き、地域包括支援センターをはじめ医療と介護の連携を日々議論しているからこそ、この「届かなかった」という事実が重く突き刺さる。
私たち行政や支援機関が用意しているはずの「認知症の人と家族の会」 や様々な相談窓口。その情報が、なぜ、診断の瞬間に、当事者の手に渡らないのか。
栗崎さんの苦闘は、僕たち支援者側が埋めなくてはならない「最後の一歩(ラストワンマイル)」の課題を、明確に示している。

様々な情報発信を行ってはいるのだが、、、
そこからなんとか、栗崎さんは「認知症の人と家族の会」の県支部に電話をかけた。そこで、いわき地区の世話人であるカワサキさん の連絡先を教えてもらい、電話をかけた。「そのうちお会いしましょう」ということになった 。
彼がカワサキさんと、そして「家族の会」という「居場所」に本当にたどり着いたのは、まったく別の、奇妙な偶然からだった。
ある日栗崎さんは、たまたま知り合いに誘われ、「子ども食堂の開催講座」に参加した 。
その講座の自己紹介で、一人の参加者がこう言った。「カワサキです。認知症の家族の会の世話人やってます」。
「え! この人だ! 俺が電話でしゃべった人は!」 。
講座が終わるや否や、栗崎さんは駆け寄った。「カワサキさん、すいません、こないだ電話した栗崎です!」「あれ?」 。
病院の窓口では繋がらなかった一本の線が、まったく無関係に見えた「子ども食堂(の研修会)」という別のコミュニティで、劇的につながった瞬間だった。
「家族の会」は、栗崎さんを救った。「あ、そうなんだ」と自分なりに納得し、多くの先輩家族の体験談を聞いた 。そして、カワサキさんから、介護の向き合い方を180度変える、二つの言葉をもらった。
一つは、「写し鏡だよ」。栗崎さんがカッカしてたら、奥さんも一緒だよ、と 。
もう一つは、「治らない病気だよ」。
「じゃあ、そんなに一生懸命こうしろ、ああしろ、って言ったって、治んないなら、しょうがねえよなって」。「頑張ってどうがしようと思ってだのが、なんともなんねえんじゃしょうがねえなあ」 。
彼は、この言葉で「(肩の力が)すっと抜げだ」と表現した。病気を治そうと「戦う」ことをやめ、病気と「共に生きる」ことを受け入れた。この受容こそが、次の怒涛の展開へつながる大きな力となった。
すべてが、ここで、つながりだす
「家族の会」に救われた栗崎さんは、ここから、彼自身が「救う」側、いや、「場を提供する」側へと回っていく。
ここからの展開こそが、私たちが知りたかった「ダイナミズム」の正体だ。
まず、第一の「つながり」。彼が通っていた「家族の会」の会場が、それまで無料で使えていたのに、有料になるという話が持ち上がった 。
それを聞いた栗崎さんは、ごく自然にこう言った。
「こご(レストラン)空いでっからやる?」 。
「え、いいの?」と驚くカワサキさん。こうして、かつての「レストランシェ栗崎」は、「認知症の人と家族の会」の会場になった 。
私たちが市の資料を確認すると、確かに、いまや「旧レストラン シェ 栗崎」は、市の公式な認知症支援の場としてパンフレットに記載されている 。彼が「ない」と言われて探しまわった「居場所」が、今や彼の店になったのだ。
この「つどい」は、栗崎さんにとっても「すごく助かってます」という場になった。ケアマネや看護師も参加するその場で、介護保険のことや利用できるサービスのことなど、当事者とその家族になって初めて直面する複雑な制度のことを、すべて教えてもらえた。「家族の会がながったら、それも絶対わがんない」 。
第二の「つながり」は、あの「子ども食堂」だ。
ある日メールが届く 。
「いいの みんなの食堂」 を立ち上げたばかりのカマタさんからだった。「お話聞いでください」と。
「”こういうことをやりたいんですが、まずは任意団体で始めようと思っています。そして、料理を教えてください”って言うがら、そっからかい!と思って(笑)」 。
栗崎さんの答えは、もう決まっていた。「こご空いでっから、じゃあこごでやるが」。店の定休日だった日曜・月曜を、子ども食堂のために月曜・火曜に変えてまで、場所と「食」の提供を即決した。そして、任意団体ではなく、NPO法人にしようと提案した。
こうして、かつてのフレンチレストランは、第2・第4火曜日に「NPO法人いいの みんなの食堂」 としても「いごき」だした。
子ども食堂研修会で「始まったら人も物も集まるよ」と言われた時、栗崎さんは半信半疑だったという。しかし、それは本当だった。「驚きですよ、今野菜なんかすごいよ。じゃがいもだらけになって」 。ボランティアも次々と集まり、今やシフトを組むほど。子ども達は40人、50人とやってくる 。
シェフが作るメニューは「ほとんどカレーですね」と笑う 。
彼のレストランが「ハブ」になったことで、さまざまな人と思いと食材が集まり、子どもたちの居場所とおにぎりとカレーに変わった。これこそ「食」の持つ力だ。

フレンチのシェフだが、子ども食堂ではカレーばかり作っている栗崎さん
そして、第三の「つながり」。2025年9月21日、「認知症の日」 。全国一斉開催される「注文をまちがえる料理店」 のニュースを見た栗崎さんは、自らいわきでの開催に手を挙げた 。
この「注文をまちがえる料理店」こそが、栗崎さんのもとに集まった流れが「ダイナミズム」を生んで合流する、集大成のようなイベントになった。
まず、「家族の会」(第一のつながり)のメンバーが、ホールスタッフとして参加した。そして、容子さん自身も。かつてのようにホールに立ち、シニアソムリエとしてワインを注いだ 。
次に、「いいの みんなの食堂」(第二のつながり)のNPOチームが、実行委員会として運営を全面的にサポートした 。
そして、未来への「つながり」。食堂に来る子ども達が、「認知症キッズサポーター養成講座」を彼の店で受けた。これは、私たち市役所の地域包括ケア推進課が推進している事業だ 。栗崎さんは嬉しそうに、子ども達がサポーターの証であるオレンジ色のリストバンドを「シェフのそれが欲しい」と言ってくれる、と教えてくれた 。

養成講座を受け、渡されるオレンジリング。渡されているのはオレンジ色のリストバンドだけではないはずだ。
「家族の会」と「子ども食堂」、そして「市役所」の取り組み。バラバラだった点が、栗崎さんの店という「場」で、一本の太い線としてつながったのだ。
なぜ、こんなことになったのか。
その根底にあるのが、栗崎さんが「オープンであること」だ。
「隠さないで、やっぱカミングアウトした方が楽だよって言うんですよ。でも、『いや、恥ずかしいがら』どが言うのもまだまだいるらしい。いや、そうすっと孤立しちゃうがら」 。
「うぢはもう、周り近所、みんな知ってます。そうじゃないと助けでもらえないがら」。山岳会の仲間にも、行きつけの業者にも。だから、彼が山に行けば誰かが容子さんをサポートし、トイレに「ついでいげない」時も女性が「いいよ、いいよ」と連れて行ってくれる 。
私たちは福島市で実際に目の当たりにした、ある中華料理屋の旦那さんの話をしました。そこも奥さんが認知症で、接客をしている。旦那さんは、奥さんに見えないよう、こっそりお客さんに割り箸の紙に書いた『妻は認知症です』ってメモを見せる 。妻を傷つけず、お客さんとのトラブルを防ぐための、苦心の末の「オープン」の仕方だ。
その話を聞いた栗崎さん、「それ俺今、一番悩んでるどごだな。なるほどすごいね、それ。今度やってみようかな」
秘密にすれば「壁」になる。オープンにすれば「助け」になる。栗崎さんが起こした怒涛のつながりの根底には、この、勇気ある「開示」があった。

左から栗崎さん、NPO代表の鎌田さん、いわき市職員の長さん
10年後の子どもたちと、シェフの「まかない」
「とにかく忙しいんですよ、金になんねえごどでずっと忙しいんだっつって」 。
そう笑う栗崎さんは、山岳会の会長と、福島登山ガイド協会の会長も引き受けている 。そして「いいの みんなの食堂」の副理事長 。
「名刺いっぱい持ってりゃいいってもんじゃねえぞ」とぼやきながら、その「金になんねえ」活動のすべてが、今の彼の店で有機的につながっている。
食堂の子ども達と、山岳会の先輩たちで、店の裏にある白土城の跡をトレッキングした 。フラワーセンターで認知症の人たちとトレッキングした時も、山岳会のメンバーがサポートしてくれた 。彼が持つ「すべて」が、コミュニティの資源になっている。
栗崎さんは、食堂に来る子ども達の「10年後」を見ている。
「今の小学生が、高校生になる頃がすごぐ楽しみです。すごい面白いごどが起ごるんじゃないがど思って、それを楽しみにしてますね」 。
「その頃俺はよぼよぼになって調理場にいられっかどうが分がらないげど、椅子に座って『これやって』『これやって』って言ってでも、いいよな、こごが拠点になればって」 。

講座を受けた子どものメモ、ノートにびっしり。
この話を聞いて、私たちはある区長さんの話を栗崎さんにした 。
もう何年も前のことだ。当時、玉川団地に集会所がないので、区長さんが「幼稚園を園児が帰ったあと、午後にでも使わせてくれないでしょうか」と交渉に行った。園長は言った。「子どもらが帰った後ではなく、子どもらがいる時に来てください。一緒に遊んでください」と。
その区長さんは我々にこう言った。「10年後が楽しみだ。10年後、俺は80過ぎて、もしかしたら認知症になって徘徊してるかもしんない。その時に、この幼稚園の子らが中学生になってて、『あ、昔一緒に遊んだおじちゃんだ』って声をかけてくれるかもしれない。その繋がりがあるかないかだけで、この玉川地区は暮らしやすい町になんじゃないかな」 。
栗崎さんがやっていることは、まさにこれだ。
彼はフレンチのシェフという「食の力」を使い、容子さんの病気を「オープンにする力」で、レストランという「場所の力」を解放した。
そして今、そこで多世代がごちゃ混ぜになりながら 、10年後の「暮らしやすい町」の土台を、カレーライスをかき込みながら作っている。
夏祭りでは、初めて「焼きおにぎり100個」を作ったと笑っていた 。高級フレンチのシェフが、今や、いわきで最大級の「まかない」を、嬉々として作っている。
「食」は、人を集める。
「開く」ことは、人を優しくする。
「場所」は、それを受け止める。
栗崎さんと、そして今も店に立ち、ワインを注ぎ、人と人をつなぎ続ける容子さん。お二人が体現している「いごき」こそ、私たちが目指す「地域包括ケア」の、最も美味しくて、最も温かい姿なんだと思うんです。

栗崎さんと容子さん
取材/文:江尻浩二郎・猪狩僚
写真:鈴木宇宙・江尻浩二郎
【インフォメーション】
▷いいの みんなの食堂
https://www.instagram.com/iinominnanoshokudou?igsh=dWxkeG5wZHlvMGRi
▷認知症カフェ/認知症の人と家族の会
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1454293773647/index.html
▷よもの会
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1618184970185/index.html
▷認知症に関する相談先一覧
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1586831845649/index.html
▷認知症あんしんガイド
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1450343478707/index.html
▷認知症初期集中支援チーム
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1466035692198/index.html
▷徘徊高齢者家族支援サービス
https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000000185/index.html
公開日:2025年11月25日





