「最後まで人間らしく」をあきらめない。大田仁史先生の「いごく」物語

医学博士 大田仁史先生


 

レジェンドとの遭遇

「これからが大事ですよ、勝負ですよ」

目の前に座る、どう見ても自分より半世紀は年上の大先輩は、そう言ってカラカラと笑った。補聴器の調子が悪いのか、時折こちらの言葉が届きにくい素振りを見せながらも、その目力は強く、笑顔とポジティブなエネルギーは尋常じゃなかった。

この日、私たちはある「伝説」に会うために、茨城県水戸市にある茨城県立健康プラザを訪れた。そのレジェンドの名は、大田仁史(おおた ひとし)先生。御年90歳を超え、日本のリハビリテーション医療の歴史そのものと言っても過言ではない巨人。そして、いわき市民の多くが一度は耳にしたことがある「シルバーリハビリ体操(通称:シルリハ)」の生みの親である。

「いわきの地域包括ケア igoku(いごく)」は、「老い」や「病」、「死」といった、ともすればタブーとされがちなテーマに向き合い、「縁起でもない」ものから「一人ひとりの物語」へと捉え直すためのプロジェクトだ。igokuがこの数年、大事にしてきたことを、何十年も前から実践してきたのが大田先生だ。だから、このインタビューは、その源流に会いに行くような試みだった。

先生はこの日も、ご自宅から電車を乗り継いでここまで来たという。「今日は県庁の部長に会おうと思ってね」なんてサラリと言う。90歳を超えてなお、部長に会って物申そうと動いている。そして、そのあとはスーパーによって帰るんだという。From 県庁 to スーパー。はぁ?

先に結論からお伝えしよう。これからはじまるインタビューは、単なる体操の作り方や健康法の話ではない。これは、一人の人間が、そして社会が、最後の瞬間まで尊厳を失わずに「人間らしくいごく」とはどういうことかを問い続けた、壮大な物語です。

 

 

 

 

レジェンド医師はいかにして生まれたか。空襲、そして一つの問い

 

物語の始まりは、戦争の記憶にまで遡る。

香川県高松市に生まれた先生の最初の鮮明な記憶は、3歳の頃、父親が戦地へ向かったことだという。そして国民学校3年生の7月、高松は米軍の大空襲に見舞われる。焼夷弾が降り注ぎ、火の海の中を、母親と3人の子ども、そして祖父母と逃げ惑った。

「外へ出た途端に、隣のうちに焼夷弾がポーンと落ちて火柱が上がったのが記憶にありますね」。

防空壕から出て逃げた先は、親戚を頼った田舎の鶏小屋だった。ござを敷いて寝起きし、シラミやダニにまみれ、食べ物もなくサツマイモ、たねイモをもらって飢えをしのいだ。「楽しいことなんて一つもなくて、お腹が減ってるっていうことだけだった」。そんな過酷な日々を生き延び、翌年、痩せ衰えた父が生きて帰ってきた。

この原体験は、大田先生の中に「生きること」の根源的な問いを刻み込んだ。そして、その問いは、彼が医師を目指す過程で、より鋭利な形を取っていく。

きっかけは、身近な人の「死」だった。中学生になるかならないかの頃、祖父が家で亡くなった。今でいう心筋梗塞だったのだろうと先生は言う。一晩中苦しみ、「医者を呼んでこい」と言われても、田舎では医者はすぐには来てくれない。結局、祖父は母に抱かれながら息を引き取った。その後、祖母も認知症の気配を見せ始めた頃に転倒し、同じように医者の助けが間に合わずに亡くなってしまう。

「お医者さんていうのは、いつも人が死んでから来る。役に立たないな」。

子どもの目に映った医療の無力さ。それは、既存のシステムへの根源的な問いとして、先生の心に深く根付いた。この「反骨精神」は、1960年の安保闘争で、仲間が次々と逮捕される中で、なし崩し的に学生運動の指揮を執ったという経験にも表れている。彼はいつだって、権威や常識を疑い、現場のリアルから物事を考える人間だった。

戦争で国家というシステムが崩壊し、目の前で医療というシステムが家族を救えなかった。この経験こそが、後に先生が全く新しい「システム」を、それも人々の中から生み出す原動力となったのかもしれない。

 

 

 

リハビリテーションの革命。それは「良くなる」ためじゃない

 

大田先生が起こした革命の本質は、リハビリテーションという言葉の「定義」を根底から覆したことにあると思う。

整形外科医としてキャリアをスタートさせた先生は、ある若い患者と出会う。大腿骨を骨折したその青年は、手術も成功し、医学的には「治癒」した。だから上司は「退院させろ」と言う。しかし、大きなギプスを巻かれた青年は懇願した。「先生、私はアパートで一人暮らしです。こんな状態のままじゃ、トイレにも買い物にも行けない。死んでしまうから病院に置いてください」。

衝撃を受けた。病気は治っても、その人の「生活」は全く治っていない。骨がくっつけば元通りになるこの青年でさえこうなのだから、もしこれがずっと続く障害だったら、この人はどうやって生きていくのだろうか?

この問いは、先生をリハビリテーションの道へと導いた。しかし、彼がそこで見た光景は、またしても絶望的なものだった。当時、派遣されていた東京の巨大な老人施設では、寝たきりの高齢者たちがベッドに並べられ、ただ死を待っていた。そして、死ねば研究のために解剖される。そこでは、人間は「症例」や「研究対象」でしかないと、先生の目には映った。

「こんな死に方でいいのか」。

この怒りにも似た問いから、先生の最も根本的で革新的な思想が生まれる。「終末期リハビリテーション」という概念だ。

リハビリとは、機能が回復し、右肩上がりに良くなっていく人のためのもの。それが当時の常識だった。骨折した人が歩けるようになるとか、麻痺した手足が少しずつ動くようになる、そんなイメージです。だから「死んでいく人になんでリハビリが必要なんだ」と、学会では猛烈に批判されたという。

だが、先生は揺るがなかった。

「リハビリテーションっていうのはね、年を取っても障害があっても、人間らしく暮らすこと。最後まで人間らしくあることなんだ」。

寝たきりで天井を見つめてただ命のともしびが消えるのを待つのは「人間らしい」姿ではない。たとえ明日死ぬとしても、今日、自分の力で起き上がり、食卓につき、窓の外の景色を見ることができれば、それは紛れもなく「人間らしい」営みだ。そのための援助こそが、リハビリテーションの本質だと先生は断言した。

これは、日本の地域包括ケアシステムが抱える根本的な課題を、半世紀も前に予見していた思想だった。医療はニーズ志向(目の前の患者さんの症状にどう応えるか)、介護や福祉は制度志向(決められたサービス枠の中でどう動くか)。それぞれの論理で動く縦割りの箱がいくら連携したところで、その中心に「最後まで人間らしくある」という共通の哲学、つまり「魂」がなければ、結局は東京の施設で見たような結末に行き着くだけだ。

大田先生の根っこと思いは、「igoku」でやろうとしていること、つまり地域包括ケアという器に「魂」を吹き込む作業の、私たちが目指すべき姿そのものだった。

 

 

 

シルバーリハビリ体操の「両翼」。現場から生まれた仕組み

 

この「最後まで人間らしくある」ことを、どうやって地域に実装するのか。その答えが「シルバーリハビリ体操」だった。そして、その本当のすごさは、体操の動きもさることながら、それを広めるために発明された「仕組み」にもある。

まず一つ目の翼は、体操の「中身」だ。これは、そこらの健康体操とはわけが違う。寝たきりの人をどう座らせ、立たせ、歩かせるかという、リハビリ専門職の技術の粋を集め、動作学・障害学などに基づき、科学的に組み立てられた92種類の体操。いわば、プロの技術を誰もができるように翻訳した、最強の介護予防メソッドだ。

しかし、本当に革命的だったのは、もう一つの翼である。それは「住民が住民を教える」という普及システムだった。

この着想もまた、現場から生まれた。昭和42年(1967年)、先生はある脳卒中の患者会に呼ばれて講演をする。しかし、専門家である自分の話は、全く当事者に響かない。彼らが本当に知りたいのは、病気の治し方ではなく、「障害を持ってどう生きていけばいいのか」という切実な問いへの答えだった。先生が答えに窮していると、患者の中から声が上がった。「そんなこと大田先生に聞いたって無理だ。それは自分で考えることだ」。

ハッとした。専門家には言えない言葉を、同じ痛みを知る「仲間(ピア)」だからこそ言える。この「ピア・パワー」こそが、人を本当に動かす力なのだと、先生は直感した。

この発見が、シルバーリハビリ体操指導士という仕組みを生んだ。専門家が上から教えるのではない。研修を受けた地域住民が「指導士」となり、仲間である住民に教える。このクラスター方式は、単に専門家不足を補うための苦肉の策ではなかった。それは、これまで「支えられる側」と見なされてきた高齢者たち自身に、地域を支える主役としての役割と権限を委ねるという、根本的な思想の転換だった。

それは、いわきの言葉で言えば、igokuが愛と尊敬を込めて、あえて呼ぶ「ジジイとババア」たちへの、最大限の信頼の表明だ。「あなたたちには、自分たちで仲間を支え、地域を良くしていく力が元々備わっている」。シルバーリハビリ体操は、その力を解き放つための装置なのだ。

それは、シルバーリハビリ体操という、地域づくりの革命と言っていいのかもしれない。

 

 

 

切っても切れない縁。なぜ「いわき」だったのか。

 

この革命の炎が、発祥の地である茨城県外で最初に燃え広がった場所。それが、私たちのまち、いわき市だった。

これもまた、不思議な「縁」の連鎖だったと先生は言う。

体操がまだ茨城で始まったばかりの頃、先生はいわきのかしま病院で月に一度、夜間に講義をしていた。その講義を聞いていたのか、あるいは別の偶然か、入院中だったいわき市役所の職員の一人が先生の活動を知る。時を同じくして、いわき市医師会が「何か市として介護予防事業を始めよう」と動き出していた。ピースとピースが吸い寄せられるように、カチッとはまった。

「あっという間に決まったはずですよ」。

先生の記憶の通り、いわき市の導入は驚くほどスピーディーだった。平成21年度(2009年度)、茨城県外初の自治体として、シルバーリハビリ体操事業がスタートする。さらに、先生の娘さんが嫁いだ先がいわきだったという個人的な縁も重なった。

しかし、これは単なる偶然ではない。当時のいわきには、新しい挑戦を受け入れる「土壌」があったんだろう。行政も、医療界も、そして市民も、超高齢化社会という未来の課題に、誰かの指示を待つのではなく、自ら立ち向かおうという気概に満ちていたのだと思う。だからこそ、大田先生の哲学の真価をいち早く見抜き、パートナーとして手を挙げることができた。

いわきの先人たちは、ただプログラムを「導入した」だけではない。このムーブメントの「共犯者」であり、その価値を全国に証明する役割を担ったパイオニアなのだ。この事実は、もっと私たちはリスペクトしてもいい。年間延べ6,500回もの教室が開かれ、指導士も高齢者も一緒になって笑い声が響く日常は、あの日の先人たちの決断の上に成り立っている。

 

 

 

 

レジェンドからの挑戦状。いわきよ、次は何をする?

インタビューの終盤、先生はカバンから一枚の紙を取り出した。そこに描かれていたのは、コロナ禍を経て、体操の活動が停滞していることを示す、一本のグラフだった。茨城のグラフと、いわきのグラフ。その形が「恐ろしいほど」よく似ている、と先生は言った。

一度は頂点を極めた活動が、踊り場に差し掛かっている。このままでは、緩やかに下降していくかもしれない。実際、いわきでもコロナ禍を境に、教室数や開催数は横ばいから微減しているし、指導士の高齢化も進みはじめている。その危機感を、先生は誰よりも強く抱いていた。

そして、先生は「次の一手」を、明確に提示した。

「ポイント制度しかない」。

体操を教える指導士にも、参加する住民にも、その活動をポイントとして可視化し、インセンティブを与える仕組み。それが、この停滞を打ち破るための最も有効な策だと先生は断言する。ボランティア精神や地域の絆というエンジンだけでは、乗り越えられない壁が来ている。だからこそ、行動経済学的なアプローチを取り入れた、新しいエンジンが必要なのだと。

私たちが「いわき市では、すでにボランティアポイント制度があり、指導士も対象になっています」と伝えると、先生は「それは進んでいるね」と顔をほころばせた。しかし、彼の構想はさらにその先にある。指導士と参加者の両輪に、より効果的な形でアプローチする、洗練された制度設計だ。

そして、彼は私たちに向かって言った。

「茨城は県だから大きくてできない。これは市町村事業でやらなくちゃいけないんだ」。

それは、紛れもなく、私たちへの「挑戦状」だった。かつて、茨城の外で最初に手を挙げたパイオニア、いわきよ。今また、このムーブメントを次のステージへと進化させる先駆者になってみないか、と。伝説は、過去の栄光に安住することなく、今なお未来を見据え、私たちの背中を叩いている。

 

 

 

 

「いごく」の魂

 

大田先生の話を聞き終えて、私は「シルバーリハビリ体操」という言葉の印象が、すっかり変わってしまったことに気づいた。

それはもはや、単なる「体操」ではない。それは、戦争の焼け跡から立ち上がり、医療の常識に抗い、制度の縦割りと戦い、そして何よりも人間が人間らしく生きる権利を問い続けた、一人の人間の生き様そのものだ。

そして、その哲学は、私たちが「igoku」という言葉に込めた想いと、重なり合う。

「人は動けなくなるまで動いていく」。

空襲の炎の中を、父の帰りを待つ鶏小屋の中を、安保闘争のデモ隊の中を、そして今もなお、県庁の廊下を、「いごき」続ける大田先生。

先生の人生が、行動が、何より雄弁な証明だ。

先生が灯した火は、今、いわきの数百人の指導士と、数万人の参加者たちに受け継がれている。公民館で、集会所で、今日も誰かが誰かのために「いごいて」いる。あの日、大田先生が患者会で見出した「ピア・パワー」が、このまちの隅々で脈打っている。

これは、体操ではない。ムーブメントだ。

年を重ねることが、罰や衰退ではなく、豊かさと尊厳であり続ける社会を目指す、壮大な社会運動だ。

レジェンドからの挑戦状は、私たちの手の中にある。さあ、いわき。次は何をしようか。そしてigokuとしても、この挑戦状にどう応えていくのか。これからの企みも、少しずつこの場で共有していきます。私たちは、まだまだ、いごいていける。

 

 

2025年9月に開催された「igoku meeting2025」において「最期まで人間らしく -リハビリテーションの魂で賞」を受賞されました。

 

その表彰式で流れた先生の魅力を伝えるムービーも是非ご覧ください。

 

 

 

取材/文:猪狩僚
写真:鈴木宇宙・鈴木穣蔵


公開日:2025年12月09日