高校生たちの見た「いごくフェス2019」①

埼玉県立不動岡高校の生徒たちによるレポート


 

(すべての写真:鈴木穣蔵)

 

8月31日から2日間開催された「いごくフェス2019」。埼玉県立不動岡高校の生徒たちがフェスに参加していました。不動岡高校の皆さんは、昨年末に開催された研修旅行「ふくしま学宿」において、いごく編集部がコーディネートした「いごくツアー」を1日体験。その後、生徒たちは埼玉に帰ってからも独自に学びを続け、自分たちの高校の学園祭で「いごくフェス@ふどうおか」を開催してくれたりと、ずっとずっと、学びを深めてくれています。

そんな彼らが感じたいごくフェスとは。編集部に寄せてくれた5人からの感想文を、2回にわたって掲載していきます。

 

佐久間さんが衝撃を受けた、白く光る棺

 

死は “身近になさ過ぎてよくわからないもの” だとするならば、生は “身近にありすぎてよくわからないもの” だと思う。

igoku fes に参加して、「生と死の祭典」というキャッチコピーの “死” という言葉を聞いて、万人が想像するであろう雰囲気とはかけ離れている明るさを感じた。お年を召した方から幼稚園生くらいの小さな子まで、老若男女という言葉のイメージよりももっと幅を広げたような来場者の世代の広さに驚いた。また、何を見ても面白い、何をしても面白い、だれを見ても面白い、本当に “死” という題材を扱っているのかと思わせるほどの面白い空間だったと感じた。

「生と死の祭典」であるigoku fesだが、雰囲気だけで見れば “死” を感じないイベントだったように思う。雰囲気だけというのは、フェスの両日行われていた入棺体験は確かに死を意識させる企画ではあったのだが、なんせそこで使われるお棺が普通じゃない、遠目で見ればただのデザイン性の高い箱にしか見えないといったところからよくわかると思う。

面白そうなものあると近づいて行ったら、実はお棺に入る企画が行われていて驚いたなんて人もいたのではないだろうか。私は1日目の夜に、光る木の下、原っぱに置かれたお棺が光りだしたのを見てすごく驚いた。「あのキラキラしている箱何だろう!」「和柄の着物?えっ、箱?」なんて声が聞こえてもおかしくはないと思う。それくらいに常識を叩き割ったかのような、あの白いお棺とは似ても似つかない見た目を見て、学校の文化祭で入棺体験の企画をさせていただいた私たちからすると、地域包括ケア推進課の猪狩さんたちはすごいことを考えるな、なんて感心させられるし、斬新すぎて笑いは止まらないし、すごく面白いと感じた。

以前もお世話になった北二区の「ババア」たちは、相変わらずのパワフルさで生き生きと様々な話を聞かせてくれたり、一緒にいた私たちの先生に結婚について語っていたり、2日目のナカフェス企画での誰よりも声は出す、手は振るといった様子に沢山笑わせてもらった。

比べる事ではないと思うが、私からは、誰よりも楽しんでいるように見えた。2日目に会場にいた人も、先に書いたように世代が違えば、出身地も様々なように、楽しみ方もそれぞれ違っているだろうが、こんなにもオープンにさらけ出して楽しんでいる人たちは、あまり周りでは見ない。ババアたちの言うこと、すること一つ一つに笑わせられるのはそれが要因なのではないかと感じさせられた。

ただ、そんな人々がいる、そんな空間だったからなのかもしれないが、フェス中に会った人たちは皆、ババアたちのように表情がよく見える気がした。いい話には聞き入る、面白いことがあれば笑う、怖い話には驚いたり怖がったりする、ときには苦笑いなんてしながら楽しんでいる様子が感じられ、また私自身もいい意味で何も考えずに楽しめた。隣に座っていた高校の友人の、普段は見られない爆笑している姿だったり、素直に反応している姿なんかを見られたのも、そんな雰囲気のおかげだと思う。

キャッチコピーの “生と死” の部分について、死は “身近になさ過ぎてよくわからないもの” だとするならば、生は “身近にありすぎてよくわからないもの” だと思う。フェスに参加した。ただそれだけのことだが、そこで普通にしゃべったり、普通に笑ったりしたことは、おそらく“生”なんだろうとおもった。

いい意味でかる~く、ゆる~く、生を体感できる、死を身近に感じられる、面白がれると、楽しい。一般的にタブー化されていることも楽しんで話せる。こんなことが感じられる企画がいわきにあることが広まっていったらいいなと思う。日常を楽しむことと、ちょっとの工夫をすること、それだけで面白く過ごせると私は感じた。

「もっと面白い生き方、死に方はないものか」。そんなことを考える人が増えて、自分にとっての面白い生き方、死に方について笑って語れる人が増えたらいいなと思う。

佐久間 千笑

 

初日を昼から体験した3人。夜にはもう2人が合流し、不動岡チームは合計5人でフェスを体験した

 

違う色が重なりあってつながりが生まれる

いごくフェス2019、とても楽しかったです! 例えばソトフェスでの盆踊り。初めての盆踊りで、正直に言うと最初はあまり乗り気ではありませんでした。でも、踊っているうちいつの間にか人も増えていて、楽しかったです。んまつーポスやヤッチキ、音楽フェスなど、ソトフェスでは音楽と踊りがなんとなく一体感を生み出しているように思いました。

また、北二区のおばちゃんたちも最高でした! ソトフェスの屋台の五平餅、甘口のたれが本当に美味しかったです。ふくしま学宿での「ババアの食堂」は私の中でも特に印象に残っています。美味しいご飯と余興のせいでしょうか。おばちゃんたちは、一緒に話していると、いつも雰囲気を一気に明るくしてくれているように感じます。

ナカフェスでの6-dimさんの即興劇では、「週明け覚悟しろ」という言葉に笑ってしまいました。観客の言葉を収集して台詞にするのですが、これを書いた人は何があったのだろうと自然と考えてしまって面白かったです。後半のトークショーは三人が自由な掛け合いが楽しかったです。ナカフェスは一人一人の個性が自由に表れていて素敵でした。

私はナカフェスでの「違う色が重なりあってつながりが生まれる」というカタヨセさんの言葉が今回のいごくフェスにぴったりだなと思い、印象に残っています。会場のみんなで踊ったり、出演者の話を聞いて笑ったり、誰かの言葉で想像したりと、どの企画にも他の人とのゆるい交わりがあり、そこから楽しさが生まれているように感じました。

また、このいごくフェスで、色んな生き方や考え方に触れ、新たな発見がありました。充実した二日間でした! 次回も是非参加したいです。そして、私と同じ世代の人ももっと来てほしいと思います。わたしの高校で開催したいごくフェスの涅槃スタグラムで「盛れる!」と楽しそうにしていた人が本当のいごくフェスに来たらどんな反応するのか楽しみです。

中村 優希

 

高校生たちは「極彩色」をどのように感じ、考えたのだろう

 

死ぬのはやっぱり怖いけど、それに向かう時くらい楽しみたい。それが “いごき” なんだな、と思う。

いわき駅に到着したのが土曜日の20時を過ぎ、ソトフェス会場へ急いで足を向けると、真っ暗ですっかり夜の更けた一角は、とてつもない熱気に包まれていた。奇妙礼太郎さんのライブのほんの最後しか立ち会えなかったが、日が暮れる前から相当な盛り上がりを見せていたことを簡単に想像できるほど、楽しい空間だった。

「igoku」の方々には、昨年末に行われた、福島学宿・igokuツアーでお世話になった。その研修では、福祉の観点から、看取りや介護、地域包括ケアなどの取り組みを体験した。詳しくはigokuのコラムで。私は、この取り組みから “言葉の力” と “つながり” を実感した。今回もまた、新しい何かを体感したいと思い、igokuフェスに参加した。ナカフェスのみの参加だったが、とても貴重な機会を頂いたので、体感した何かを書いてみたいと思う。

日本語には物凄い力があると思う。欧米とは反対に、一言一言に沢山の思いや空気感を載せて伝える日本語は、相手を簡単に喜怒哀楽させてしまう。言語に優劣などないが、そんな日本語が好きだ。

ナカフェスの始めを飾ったのは、いごく表彰式で受賞も果たした、故ケーシー高峰さん。テレビの演芸番組で何度か拝見したことはあったが、詳しくは存じ上げていなかった。だが、偉大な方だと言うのは、表彰式の最初の動画ですぐに分かった。ネタの中はもちろんのことながら、日常から、周りの人を惹き付けるような言葉を使っていたのだと思う。心配して周りで支えていたひと達は、きっと“ケーシー高峰”という人間に魅せられて、心のそこから師匠のことを思っていたのを凄く感じた。それでも、待つ人のためにいごき続けたその姿に、とても力を感じた。

それは、フェスの最後を飾った、毒蝮三太夫さんに新山ノリローさん、師匠行きつけのスナックのママを加えた「スナックらん」でも。生前の師匠の、色々な生き様に出会ってきた3人の話から、師匠にはどこか特別な力があるのが分かった。そんな力のある言葉で、最後までエロ漫談でいごき続けた師匠は、「らん」の3人はもちろん、出会ったひとや客席のひと、テレビの画面の向こう側のひとを笑わせ、魅了し、いごく力を与え続けた。その姿は “igoku” そのものなのだと思う。ぜひ、ゆっくり休んだ後、またいごいてください。

“言葉” を巧みに使った即興集団「ロクディム」の即興劇には凄く惹き込まれた。筋道を立てた台本のない即興劇だからこそ、言葉のひとつひとつがとてつもない力を発揮する。ロクディムのステージの冒頭、素直に笑って、声を出して、泣いて下さいと話された。その通り、最初から最後まで芝居に見入り、沢山笑った。いつの間にか、自分が話の中に入ったような、舞台の上にいる6人と知り合いであるかのような感じがした。

きっと、ロクディムの6人と、そして、同じ世界に入った劇場内の人と、“つながり” ができたのだと思う。人と人とのつながりは、言葉で表すような固いものじゃなくて、気づいたら結ばれていたり、ふとした瞬間にほどけたりするものなんだろう。みんなが言うように、人はひとりでは生きれないのだと思う。ただ、言葉をつかっていごいているあいだは、つながりは勝手にやって来てくれるから、孤独を感じていても、実はそうでもなくて、あまり心配はいらないのかもしれない。

“死” から振り返ることで、“生” を見通す。松原タニシさんの、人が無くなっているその場所で心霊現象を検証する、一見不謹慎そうな事故物件企画も、中身を見てみれば、この世に生きる人達が、誰かの死という一地点を間近に体験することで、生きるということを見つめ直す、実はいい企画なのかもしれない。

フェスの目玉でもある入棺体験も、特注の2人用の棺を用意してしまうなど、今までの日本人らしい考え方とはかけ離れたように思うが、みんながこの逆行とも言えるような見方を知れば、もっともっとみんながいごく社会になって、楽しくなるような気がする。

人は必ず死んでしまう。紛れもない事実なのに、みんなそれを避けて生きている。もちろん死ぬのは怖いことだし、考えたくもない。だけど、その瞬間はいつやって来るか分からない。いつまでも知らないふりをしていたら、その時を満足して迎えられないと思う。ずっとじゃなくていい。時々めをむけてやるだけで、もう少し楽しく生きようと思えるのだと思う。死ぬのはやっぱり怖いけど、それに向かう時くらい楽しみたい。それが “いごき” なんだな、と思う。

いごいていると、誰かしらに出会う。「ことばを操る動物」である人間をホモ・ロークエンスとして定義すると授業で習ったが、生きる上では言葉が本当に大切だと思う。沢山の思いのこもったその言葉たちは、いつの間にかつながりを作ってくれる。そうすれば、もっといごきもうまれる。これがigokuフェスで感じた “何か” です。

山岸 友真

 


公開日:2019年09月17日