死とおしゃべりする旅、きみの呼びかけ

文・前川あずさ


 

昨年末に、埼玉県立不動岡高校の生徒たちと行った「いごくツアー」。福島県のホープツーリズムの一環として行われたそのツアーに、実は、ひとりの大学生が参加していました。聖心女子大学で哲学を学ぶ前川あずささん(4年)。前川さんをたびに誘ったのは、シンプルに「哲学」を学ぶ若い大学生がこのツアーで何を感じるかを知りたかったから。前編と後編の2回に分けて、前川さんの感じたいごくツアーのエッセイを紹介します。今回は後編。

 


 

「死」とおしゃべりする旅、きみの呼びかけ。(後編)

文・前川あずさ

 

対象としての「死」ではなく、ひとつの出来事としての「死ぬ」に向き直ってみると、聞こえてきたのは「僕らは、ひとりでは死ねないんだよ」という呼びかけだった。ひとりでは死ねないからこそ、ひとりでは生きられないし、ひとりで生きようとしなくていいんだよ。……そうだったのね、ありがと。そんな気持ちで「死ぬ」の呼びかけを受け止めながら、おしゃべりは続いていく。

わたしがひとりでは死ねない、ということは、あなたをひとりで死なせない、ということでもある。今回、高校生という若い世代の人たちが「いごくツアー」を体験した意味も、もしかしたらこの事実の周辺にあるのかもしれなかった。わたしがひとりでは死ねない、ということは、わたしをひとりでは死なせない誰かがいる、ということだ。

その誰かとは誰なのか、ということを想像してみると、まるで待ち合わせをしたかのように、「今の自分自身」に出くわすのだった。わたしがひとりで死なない前に、わたしがあなたをひとりで死なせない。そうでしょ、そんな声が聞こえてきそうだった。

だからといってそれは、だから将来親の介護をちゃんとしなきゃとか、近しい人の死をきちんと看取らなきゃとか、そういうことにつなげていくこととも違って、もう少し手前のことを、違う言い方をするなら今目の前にある日常のことを、考えさせたがっている気がした。

誰かをひとりで死なせないわたしは、普段どんな人たちと、どんな生活を分け合っているんだろう。分け合っていることに、どんな意味があるんだろう。そこに意味を見出したいこの感情は、何なんだろう。喜びばかりじゃない、それはきっとそう、でも決して醜いことじゃない。そして、そもそもわたしは誰を、ひとりで死なせたくないんだろう。誰の、そばにいてあげたいんだろう。

それはもちろん、誰じゃなくたって構わない。だけど、何となく浮かんでくる顔があるならそれは、ちょっぴり大切にしたい感情かもしれない。

そんなことを考えてみて、少し輪郭を増した日常に触れてみて、文字通り有り難いことだな、なんて思って、でもたぶん翌朝くらいにはそのことをきれいさっぱり忘れている。それでいいのだと思う。誰かをひとりで死なせないわたし、はべつに、常に誰をもひとりで死なせないわたし、ではないからだ。時々そのことを考えて、すぐに忘れて、でもきっとその考えたことの轍が、いざというときに私たちが道に迷うのを防いでくれる気がする。

 

 

さて、ひとりで死ねない、ひとりで死なせない。「ひとり」という言葉を当たり前のように何度も使った。だけどまた、「死ぬ」の声が耳元で鳴る。ひとりって、何だろうね。ひとりで死ぬって、どういうことだろうね。

「死」という主題をそっちのけにしても、この話はわりと難しい。大勢の人に囲まれていても、どうしようもなくひとりなときがある。部屋にひとりでいるときに、誰かを感じられるときもある。ひとりじゃないこととひとりぼっちじゃないことは、必ずしも同じではない。だけど、ひとりで死ねないというのは、できれば「ひとりぼっちで」死ねないということであってほしいし、ひとりで死なせないというのももちろん「ひとりぼっちで」死なせたくないということであってほしいと思う。

だからこそ、たとえば「地域包括ケア」のように、「地域」という言葉が鍵になってくるのかもしれない。今回のような文脈で使われる「地域」というのをあえて言い換えてみるなら、「おとなりさん」のできる限りの拡張型、みたいなことになるだろうか。血のつながりの次に切り離せないのは、場所によるつながりだ。生活の場所を分け合っている限りは、少なくとも物理的にはひとりではない。だからこそ、その物理的な近さが心理的な近さと等しくあってほしい。それが、最終的にひとりぼっちではないことと結びついていく。

 

では、どうしたらひとりではないこととひとりぼっちではないことが等しい「地域」をつくっていけるのだろうか。そんなことを考えたときに、私の中でふと蘇った言葉があった。「いごくツアー」からは外れてしまうが、この「ふくしま学宿」の中でお話を聞いた、南相馬市小高区で「おだかぷらっとほーむ」を運営する廣畑裕子さんの言葉だった。

廣畑さんは私たちに、一歩外に出ること、私がここにいます、と告げることが、地域での交わりをつくっていくのだと語った。私がここにいます、と告げること。その「私がここにいます」という事実は、まるで当たり前のこと、そして誰のためでもないことのように見える。だけどむしろ、誰のためでもないからこそ、それは常に誰かに対する応答になりえるのかもしれない、と思った。

私がここにいます、と告げているそれはすでに、そこに誰かいますか、という呼びかけに対する応えになっている。その、自分の存在をもって他者に応えるということが、「地域」の中で、自分と他者のどちらをもひとりぼっちにはさせないことにつながっていくのかもしれない。ひとりで死ねない、ひとりで死なせないの「ひとり」は、たとえばこんなふうに紐解くことができる。

 

 

こんな「死」とのおしゃべりは、だけどどうして、この旅の中で始まったのだろうか。

「いごくツアー」の舞台となったいわき、そしてそのあとに続いた双葉郡、南相馬。死ぬということや老いるということ、あるいはひとと関わるということ、そんなことを私たちに考えさせたその力は、何だったんだろう。この問いに対して、たとえば「震災でたくさんの命が失われた地だから」とか「人々の絆が際立つ場所だから」とかいう答えをするのは、ちょっぴり肌理の粗さが目立つ。間違ってはいないけれど何となく違和感を覚えてしまうのは、この答えの中だといわきや双葉郡、南相馬は文字通り「舞台」になってしまうからだと思う。

ホープツーリズムとは言っても、いわきも双葉郡も南相馬も、「たくさんの命が失われた地」、あるいは「原発事故によって人々が離散した地」である以前に、ツアリストと同じひとびとが、自分たちの生活そのものを営んでいる場なのである。訪問者が求める物語を上演するための劇場ではなく、そこに住むひとびともまた役者ではない。

「いごくツアー」はその点、訪問者の側が役者になるツアーだった。その場所に現にあるノンフィクションを、訪れる者が演じることによって体感する旅だった。だからこそそこに働いた「場所の力」は、被災地としての力ではなくあくまで、たくさんの人が「いごいて」いるいわきそのものの力だったと思う。「死」とのおしゃべりがなぜこの旅の中で始まったのかという問いの細やかな答えもきっとそこにある。舞台上ではない飾らなさ、そこにまさに今「いごく」人々や出来事たちの持つリアリティ、そのリアリティを引き受けているという場所の力が、私たちに「考える」ということそのものを引き受けさせたのかもしれなかった

友だちとして見知っていると思っていた「死」は、私の中で少しだけ遠くなった。でもその遠さが、今は何となく心地よい。何よりも、「死ぬ」という人格が私に淡々と教えてくれたこと、わたしはひとりでは死ねないし、誰かをひとりでは死なせないわたしなのだということ。そこに立ち現れた、誰かと関わってこそ成り立つ日常を、まずは少しだけ愛してみたい。

 

 

終わり

 

プロフィール:前川 あずさ(まえかわ・あずさ)
政治哲学、臨床哲学を通じて「ひととひとの関わり」について考えている哲学科の大学生。好きなものは油そばと旅、おしゃべり。

 


公開日:2019年02月04日