豫のヨは悦豫のヨ

小川町 菅野 豫(かんの・よ)さん


 

 

 

「ちょうど行きたいなーと思っててね。いい引き合わせだね今日は。いい日だ」

 

わたしたちは今、菅野 豫(かんの・よ)さんと一緒に小川町柴原の遍照寺へと向かっている。気持ちのよい冬晴れ。後部座席の豫さんはいつにも増して楽しそうだ。

 

「山、赤くなったね」

 

ふるさとの山を愛おしむように眺めながら、豫さんはゆっくりと歌いだした。

 


北天高くそびえたつ
二ツ箭山を仰ぎ見つ
夏井の川のささやきを
聞きてぞ生い立つわれらなる

 

そのまま続けて歌う調子で「まっすぐ行きまーす」と道案内され、そのキュートさにハートを射抜かれていると、続けざまにこんな話をしてくれた。

 

「戦争中、出征していくでしょう。その時この歌を歌ってね、送ってやったの。ふるさとの歌。誰が作ったのかは分からない」

 

踏切を渡り、小学校の横を通る。やがて道は二ツ箭山に向かうゆるやかな登り坂だ。

 

なぜこんなことになっているのかというと、その話は1ケ月半も前に遡らなければならない。

 

 

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10月13日のことだ。福島民報のウェブサイトで第44回吉野せい賞の選考結果が発表されていた。吉野せい賞とは、地元いわき市出身の作家・吉野せいの業績を記念して、新人の文学作品を顕彰するものである。4年ぶりの正賞が出たというそのニュースを読み始めてすぐに目が止まった。

 

 

選考委員会特別賞には過去最高齢の菅野豫(よ)さん(95)の小説「山吹の花」が選出された。

福島民報ウエブサイト(2021年10月13日付)より

 

 

豫さん! 間違いない。われわれigokuの記念すべき第一号取材先にして原点中の原点、あの小川のカリスマヨギではないか! なんてことだ!

 

 

二ツ箭と呼吸する日々

 

 

都合のつく編集部員で早速ご自宅を訪ね、本件についてお話を伺った。

 

「今度の受賞に決まったのは『山吹の花』っていうのね。それを人生に例えてね。物語みたいにしてね。最高齢だからお情けがあったんじゃない?」

 

いえ! きっと紛れもない実力が正しく評価されたはずです!

 

「賞のために新しく書いたわけじゃないんだよね」

 

え? どういうことですか? と言うと豫さんは一冊の本を見せてくれた。なんと数年前に自費出版していたのだという。まったく知らなかったのだが、それにはしかるべき理由があった。

 

「これを40冊かな、知り合いに読んでもらおうと思ってね、作ったの。そしたらすぐ水害にあって、流されちゃってね。これだけ、よその家にあって、もらってきたの」

 

水害というのは一昨年(2019年)の台風19号で夏井川が氾濫したときのことだ。御自宅は浸水し、豫さんは御高齢での避難生活を余儀なくされた。その際この自費出版本はすべて流されてしまったのだという。あろうことか原稿も流されてしまった。ごく一部をすでに配布しており、それを尋ね回って1冊だけ見つけることができた。訳を言って返してもらったというが、結局この1冊しか出てこなかった。以来、豫さんはそれを何度も大切に読み返し、今ではあっちもこっちも書き込みだらけになっている。

 

 

 

 

「本当にこの一冊しかない。これしかないんだよね。今読んでもよく書いたなあと思うね。書けないよね、こんなに」

 

言葉がないまま、その本に書かれているいろいろなお話を聞かせていただいた。結婚前にダンナさんと映画を観に行き、終電を逃して手をつないで帰ってきたこと。ダンナさんの退職後、二人で世界中を旅した話。リオのカーニバル、イスタンブールの公園で出会った大学生、エルミタージュ美術館のすばらしさ。

 

「あんたらもいっぱい歩ぎな。お金なんて残すこどねえんだがら。若いうぢに色々舐めておぐと思い出がいっぱいあっていいよ」

 

すっかり長居してしまったのでお暇する。授賞式に伺ってぜひ写真を撮りたいと言うと、どうぞどうぞと快諾いただいた。

 

覚えている人もいるだろう。紙のいごく創刊号には豫さんのポートレートがでかでかと載っている。豫さんの一番好きな場所で撮りましょうと提案すると「心平記念館」という返事であった。あのポートレートは記念館の屋上にあたる小高い丘の上で撮ったものだ。ふるさとの大好きな山、二ツ箭山をバックに。

 

 

 

 

 

その草野心平記念文学館が授賞式の会場なのである。奇縁というほかない。同じ場所でまたポートレートを撮りたいじゃないか。

 

 

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11月6日、授賞式当日。豫さんはチェック柄のシャツワンピースに黒のパンツ、そして紫のベレー帽という、シックな中にも華やかさが感じられる出で立ちで現れた。介添も付けず一人で歩きまわっているので、受賞者リストで年齢を知っている参列者たちはみな驚いているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授賞式終了後、あのときと同じ場所に案内する。丘の上まで登っていただくのはちょっと不安もあったけれど、ご本人もご家族も「大丈夫大丈夫」と二つ返事で笑っている。

 

「歩けるよ。大丈夫。どこまでも歩けるから」

 

さっきまで厚い雲で覆われていたのにすっと晴れた。日差しが強すぎるくらいだ。前回のポートレートを額装してプレゼントした。喜んでくれたようで嬉しかった。大好きな二ツ箭山をバックに、受賞記念の新たなポートレートを撮らせてもらった。それはその後、紙のいごく11号に掲載されることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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11月11日、ポートレートにつけたテキストを確認してもらうため再び御自宅を訪れた。その内容が呼び水となって話に花が咲く。

 

「ごはんをたくさん食べて動く。人間は動物だ。動くものなんだ。動がねっかだめなんだね」

 

いごくこと。やらせではない。豫さん自身から出てきた実感のこもった言葉である。

 

「健康は口からっていう言葉もあるもんね。まず食べるっていうふうに私は解釈してんだけど。若い人も真似してくれっかもしれないしね。元気が一番だもんね。私は歩ぐよ。今はね、朝40分歩いでんの。こごずーっと行って、お地蔵様をお参りして、公民館行って、ちょっとお休みして、帰ってくっと40分になんだわ。100歳までは生きたいなんて考えでだんだげど、100歳ではもうあと何年もないんだよね」

 

と笑ったあと、「んだがら120歳まで生きるのを目標にしようがど思ってね」「すごい! それ書きます! 」「いやダメダメ! 笑われっちまうがら!」というやりとりがあったのはここだけの話である。

 

「今ね、書いてるの。ひとつ書いたの。気に入ったのあるの。自分で気に入ってるの。『蓮』って言うね、ハチスね。来年出す予定なのね。母親の話なんだけど、長男が亡くなったのね。たった4年間だった」

 

やがて話は今回の受賞作『山吹の花』へ。

 

「山吹って実がならないんだよね。私の青春の憧れの人がいたんだけど、実がならなかった」

 

この作品を読みたくて仕方がないのだが、受賞作が某誌で活字化されるのは来年の3月である。前述の自費出版本に同作品の原形となる小説が掲載されているのだが、いまやこの世に一冊しかないその本を貸してくれとはどうしても言えなかった。

 

しかし、である。

 

実はわれわれは、豫さんに内緒で、ある計画を進めていた。

 

10月13日の訪問の際に自費出版本の奥付(巻末に設けられる書誌事項)を見せてもらった。印刷・製本は市内のよく知った印刷所である。発行は2年前だ。データが残っている可能性があるんじゃないか。

 

翌日、その印刷所を訪ねて問い合わせてみると、果たしてデータが残っているという。著作権を考えると勝手にやって許されることではないが、豫さんを驚かせたくて、まったく同じ体裁で増刷をかけた。費用はわれわれのカンパである。

 

それが納品され、やっと届ける機会を得たのはさらに2週間後のことであった。

 

 

 

 

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11月26日、この日は午前中に訪ねた。今日はプレゼントがあるんですよ、と切り出すと、

 

「あら嬉しいごど。なんでしょう? 」

 

というので「さてなんでしょう? 」とニヤニヤしていたら、

 

「一応仏さんにあげておぐがな」

 

と仏壇に持っていかれそうになった。いやいや! 今開けてほしいんです! と言うと、

 

「今開げていいの? あらそう。んでは」

 

とハサミで丁寧に包装を解いていく。

 

「出てくるまでが楽しいんだよね。どうがなあ。あだしの好きなものがな。うん、何でもあだしは大丈夫。順応性があるがら」

 

 

 

 

 

 

やがて出てきたのはこの世にもうないはずの自著だ。どんなリアクションをするのかと興味津々だったが、意外とこういうとき、人間はテレビドラマのような反応をしないものである。豫さんはしばらく無言で動かなかった。なにが起こってるのかわからないようだった。われわれも無言で立っている。やがて豫さんが口を開いた。

 

「これだったの・・・。 お友達にあげようと思ってたんだけど水害で流されちゃってね。一冊だけよそにあったのをもらってきたのね」

 

 

 

 

 

だからわれわれからのプレゼントなんです。豫さんに無断で増刷とかしちゃいけないんですけど、びっくりさせようと思ってやっちゃいました、と謝罪する。

 

「ううん。ありがとうね」

 

少し余計に刷った分を図書館に寄贈したいことを告げると、「それはおこがましいけども・・・」とためらいつつ、最終的には了承してくれた。近くみなさんも図書館で手に取れるはずである。タイトルは『わが心のうた』。

 

 

 

 

 

 

少し落ち着いて、現在の執筆活動の話になった。

 

「来年はこれを出そうと思ってんの。これはうちの母親の一生をずーっと書いてあるのね」

 

前回少しお話を伺った、新作『蓮』の話だ。

 

「十三仏って仏様あんの分かる? おっかちゃんこど迎えに来るわげだ。おっかちゃんは蓮に乗せられてずっと極楽に行ぐの。極楽浄土に行ぐのね。十三仏っていうのはこれね」

 

豫さんは仏壇の中に貼ってあった十三仏の図を取り出して説明してくれた。

 

 

 

 

 

 

「豫」さんのこの印象的な名前について質問したことがある。お経の中から父親がつけてくれたそうだ。三姉妹は上から悦(えつ)、豫(よ)、哲(てつ)。

 

あとで調べてみると、悦と豫は『無量寿経』というお経に出てくる文言だった。ひと続きの「悦豫」という言葉で出てくる。悦豫というのは(仏典を踏まえて説明することはできないけれども)「よろこび楽しむこと/打ち解けて楽しむこと」だそうだ。名は体を表すというが、いかにも豫さんにふさわしい名である。

 

豫さんは実は寺の娘である。われわれも今回この件で再び通い始めるまで知らなかった。実家はこのご自宅から少し二ツ箭山を登った柴原地区の遍照寺だ。まさに二ツ箭山の麓で生まれ育っているのである。

 

わたしは増刷する際に見本刷りを貪るように読んでしまったのだが、ご実家のお寺の話で妙に心に残る作品があった。タイトルは『松の木の出征』。

 

終戦間際、軍艦を作る材にするということで、本堂の脇にあった松の木が供出されることになった。その顛末をまだ十代の豫さんが静かに見つめたエッセイだ。伐採された場面、その後に続く搬出の場面を引用させていただこう。

 

 

 パサーッと大きな音がしました。走って行ってみると今迄のうす暗がりの山がパッと明るくなって、松の木の回りにあった、山いちごやさがりこなど私の大好きなおやつのなる木々が下敷きにされていて淋しくなってきました。
 間もなく運び出す日がきました。出征しないで家にいる甲種合格でない男たちが松に太い綱を回し、肩に帯だすきの様に掛け何人もで「よいしょ」「よいしょ」と掛け声強く引きはじめたのです。掛け声がかかるたび、木はほんの少しずつ動いて坂道を下りていきます。
 その時の父の姿が印象に残っています。淋しそうな顔でした。
 両手に数珠をかけ経をとなえて松の木から目をはなさないで見送っていたのです。

菅野豫『松の木の出征』より

 

 

あの話が印象的でした、と言うと、

 

「本堂が風で痛むでしょう。その風を防ぐために植えだったんだね。屏風代わりにね。それが出征して行っちゃった。もうちょっと時期がずれてれば本堂守ってくれだのにね。男達が肩に引っ掛けた綱引いてね。引っ張られて行ったんだよ。坂道を下りていったの。うちの父は、こうやって拝んでだ」

 

その切り株を見てみたいんですけども、と言ってみる。

 

「いまは分がんねんでねーげ? ずっと古い話だもんね」

 

その可能性は高いな、と思う。でもどうしても一度その場所に立ってみたかった。「これから行ってみようと思ってるんです」と言うと、

 

「いま行ぐの? んじゃ、あだしのごと連れでって。ちょうど行ぎだいなと思ってだの」

 

本当ですか! 一緒に行きましょう! と前のめりで答えてしまった。

 

かくして場面は本文冒頭に戻るのである。

 

わたしたちは今、豫さんと一緒に小川町柴原の遍照寺へと向かっているところであった。

 

まもなく到着である。

 

 

 

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「この道行げば車で上がれっけんとも、石段登りましょうね」

 

御年96歳のご婦人が長い石段を登ると言っている。異存があろうはずがない。

 

 

 

 

 

「ここの住職は手入れ大変なんだ。年中野良仕事だ」

 

境内は広大だがよく手入れが行き届いている。現在の住職は豫さんの甥っ子だ。

 

「子どもの発想っておもしろいね。これね、この仏さん、歯痛いのかなって思って」

 

傍らに祀られている如意輪観音の話だ。豫さんはだんだん子どもの頃に戻っていくようである。

 

「あだしは子どもの頃は毎日(落ち葉を)掃いたんだよ。年中、石段掃除させられだんだ。この脇のどごは昔は芝生でね」

 

長い石段を登る豫さんの足取りは軽い。

 

 

 

 

本堂脇に住居が隣接している。豫さんが住んでいた頃は藁葺き屋根だったそうだ。

 

「聞いでみっか。いっかなんだか分がんねえげど」

 

 

 

 

玄関に声を掛け、出てきた奥様に今日来た訳を説明する。まったく意味が呑み込めていないようだが、そりゃそうだ。われわれもよく分かってない。

 

ご自宅の裏には立派なイチョウの木が覆いかぶさるように立っていた。

 

 

 

 

「イチョウの葉っぱは薬になるんだって。とってぐげ? 葉っぱとってぐ? 袋もってこねっかだめだね」

 

裏手に回る。豫さんはヒョイと屈んで鼻歌交じりに落ち葉を拾っていく。

 

 

 

 

 

 

「収集本能が発達してっから何でもとれる。これ銀杏。こうやって『いごく』だね、本当に」

 

やがて袋いっぱいにとると「んでは行ぐが」と先を歩き始めた。

 

 

 

 

境内の観音堂。西国三十三観音として近隣では有名なところだ。

 

「三十三の観音様。ここからのぞけるよ。お祭りのどぎだけ開げるんだけど」

 

拝む豫さんを見ていると、鰐口紐の六角胴枠に豫さんの名前を見つけてしまった。豫さんが奉納したということになる。そんなことを自分から言い出す豫さんではない。わたしが言及してもやんわりとはぐらかされてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

「松の木があったのはお墓の後ろなんだよね。4本立ってだんだ。このへんだね。夜になって、風吹くどね、ゴウゴウ、ゴウゴウって音がまたすごいの。この坂道を曳かれてね。こうやって行ったのね」

 

豫さんが示す本堂の西側を探してみたが切り株らしきものは見つけられなかった。もう50年以上前の話だ。残念だが仕方がない。ただ実際の場所に立ったことでそのときの情景をかなり実感をもって思い浮かべることができた。当の作家本人に案内されているのだから贅沢な話だ。

 

 

 

 

 

「三十三の観音様は京都の方からずっと船で来て、中之作から上ったんだっけな。一人一体ずつ背負ってね、ここに納めたんだって。観音さまのお祭りがあるんだよね。8月の9日。賑やかだよ。みんなここで盆踊りやったり。じゃんがらも。あそこに櫓立つの。今でも立つよ」

 

 

 

 

 

「せっかくだがら本堂お参りしたら?」

 

という豫さんの勧めで本堂に上がらせていただくことになった。甥っ子のご住職も仕事の手を休めて奥から出て来られた。

 

「浄土宗のお寺でね。小川には全部で10ケ寺あるんですけども、浄土宗は1ケ寺だけ。あとは真言宗ね。昔は大字に1ケ寺ということで、柴原(地区)の菩提寺だったんですけども、今はあちらこちらからお檀家さんが入ってこられて、おかげさまで2倍ぐらいに増えてます。ありがたいことです」

 

どこの寺でも檀家が減って困っているというこのご時世に、倍に増えるとはなんということであろうか。しかしここに来てしばらく過ごしてみると、このお寺と縁を持ってここに墓を作りたいという人の気持ちも分からないではない。市の中心地まで車で30分とかからないのにこの境内の気分のよさは一体なんなのか。

 

「御本尊様は阿弥陀如来。ま、線香あげてお参りしてください。三十三の観音様は中之作港に上がって、行列を組んでここにおさまったわけです。この建物は築270年かな。江戸の後期ですね」

 

私たちがご住職からいろいろ説明を受けている間、豫さんは御本尊様の前にちょこんと座り、子どものような顔で物思いに沈んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

「棟札の話も聞いた? あ、そう。んでは帰っけ」

 

ご住職にお礼を言うと、豫さんはまた当然のように石段を降りていく。足取りはまたしても軽い。

 

 

 

 

 

 

 

再び車を走らせる。

 

「あたし、はじめ教員になったとき、ここに勤めたの。楽しかった」

 

通り道にある小学校のことだ。ちょうど今のご自宅とお寺の中間くらいにある。なんだか豫さんの思い出にすっぽり包まれてしまったような、そんな不思議なツアーに参加している気分だ。

 

戦後間もない頃でいろいろあったと思うけども、「楽しかった」と一言で言える豫さんはやはりすごい。「悦豫」は「よろこび楽しむこと」であった。姉の「悦」さんにも会ってみたかったと思う。

 

「今日はよき日でした。収穫がいっぱいありました。ありがとうございました」

 

かしこまって礼を言われ、こちらは返す言葉もない。

 

お茶でも飲んでぐげ? と言われたけれども、豫さんはそろそろデイサービスに行く時間である。名残惜しいがお暇しなければならない。

 

われわれが車に乗り込んで帰ろうとすると、豫さんは通り沿いまで出てきてくれてこんなことを言うのである。

 

「さよなら。元気でね」

 

走り出したもののわたしは胸が一杯で、たった数百メートルしか走らずに小川郷駅で車を止め、エンジンを切って深呼吸した。

 

「無理だー! おれには書げねーわ!」

 

早々に白旗である。みんなは笑っていた。いや書けないですよ、これは。

 

しかし今、自分に鞭打って書いてます。わたしの「無理だー!」のなにかが少しでも伝わったなら幸いです。

 

こういうのが「igoku」なんでしょう。ほかに何も言うことはありません。

 

こういうのが、「igoku」なんですよ、やっぱり。

 

ではまた。さよなら。元気でね。

 

 

(文・写真/江尻浩二郎)

 

 

 


公開日:2021年12月08日

菅野 豫(かんの・よ)

大正14年、小川町大字柴原生まれ。われわれigokuの記念すべき第一回取材先にして原点中の原点。かつて小川町の洋品店で開かれていたの伝説のヨガ教室のカリスマヨギ。本年、小説『山吹の花』にて第44回吉野せい賞選考委員会特別賞を受賞。