生き様と出会う場所

igoku Fes2018「本公演」レポ


 

前夜祭の狂乱、、、の次の日。極楽浄土をテーマにした生老病死の大祭典「いごくフェス2018」本公演がいわきアリオスで開催されました。さて今回はどんなフェスティバルになったのか。そして、訪れた人たちは、何を思い、何を持ち帰ったのか。今回のレポートでは「いごくフェス2018」の2日目、本公演を振り返ってまいります。

いごくフェス2018レポートシリーズ
前夜祭編
平間至シニアポートレート編
VR認知症体験編
④本公演編 ←今ようやくココ

 

−1回死んでみることで見えるもの

今年のいごくフェス。とにかくプログラムが満載で、何から書いていいのか分からないのだけれど、やっぱりまずはこれ、入棺体験。入棺体験自体は、この数年「終活」の一環として各地で行われれるようになっている。本公演の行われる中劇場のホワイエに棺が用意されていて、開始時間直後から列ができていた。

 

美しくディスプレイされた棺たち(撮影・中村幸稚)

 

ちょっと待て、棺に入るために人が列を作るってどういうこと? どうしてみんなが入りたいの? 「生きてる間に棺に入ると長生きするって言われるじゃない」と、どこぞのお母ちゃんが話していたが、皆さん、いい顔で棺に入っていく。

棺に入り、手を組んで胸の上に置き、自分を見つめる家族や友人の顔を見ながら天井を見つめ、そっと目を閉じる。蓋が閉められ、静かな空間のなかで、いろいろなことを考える。ああ、こんな感じなのか。いつか私も死ぬんだろうなあ、みんなどんな顔するかなあ、天国にいけるかなあ、意外と棺の中って心地いいかもなあ、なんて。

 

夫からのラブレターを持参して体験を行なった女性も(撮影・中村幸稚)

 

まだ来ない未来を考えたり、仕事の世界を考えたりする。すると、今が変化する。

死後の世界などというのは、ないといえばないし、あるといえばある。そういうものだろう。ただ、その世界を想像する前と後で、何となく目の前の景色が変わってしまうことがある。棺に入る。そして本当にはわからないもの(死であったり死後の世界であったり)を想像する。つまり、「棺」というフィルタを通じて、普段は見えない景色を見ようとする。。。。

すると、目の前の家族がさっきより愛おしく見えたり、もっと人生がんばってみるかなとか思っちゃったり、あ、銀行口座の整理もしないとなとか、パソコンの中の見られりゃいけないものどうしようかなんて考えてみる。ありもしない死後の世界を考えることで、現実の行動が変わってしまうのだ。死後の世界を想像することの醍醐味。それは「今を変える」ことにあるのかもしれない。

 

−いごく健康ブース

本公演まで時間があるので、アリオスのフリースペース「カンティーネ」へ。ここはいわきで「動(いご)いている」団体が健康や福祉に関わるブースを出している。興味深かったのはソニーネットワークコミュニケーションズ(株)が開発した「ファイト」という端末。

体の動きを感知する腕時計のような端末で、これを装着した状態で指定の運動を行うと、自分の運動能力がどのくらいか、劣っている機能は何かを教えてくれる、というものだ。足踏みをしたり、何度も立ったり座ったりを繰り返したり、記憶のテストをしたりすると、それを点数で表してくれ、さらに、その衰えている機能を回復させるための「シルバーリハビリ体操」を提案してくれるのだ。

このシステムがさらにすごいのは、日々の運動量(歩数)や睡眠時間なども記録してくれること。つ・ま・り、この端末を身につけていれば、日々の健康を把握し、なんなら自分の体のどこを鍛えれば良いかを常に教えてくれるというわけ。

いわき市の「不健康」については、過去の記事でも伝えているけれど、確かにこういう端末が普及すれば、いきなり重症化する人を減らすことにつながるかもしれない。みなさん、いわき市民の健康寿命を伸ばそうと、動(いご)いてらっしゃるわけだ!

 

ファイトの端末で体力測定をする皆さん。マジでハイテクですこれ(撮影:中村幸稚)

 

青魚の健康食の試食に舌鼓を打つ川平ガールズの皆さん!(撮影:中村幸稚)

 

障害福祉の事業所を運営するNPO法人ソーシャルデザインワークスのブースも(撮影・中村幸稚)

 

−さぁ、いごくべ 〜いごく表彰式〜

さああ、本公演である。まずは、いわき市で今年最も「動(いご)いた」人を表彰する「いごく表彰式」。今年は、医師の中山元二先生、そして、いわき市シルバーリハビリ体操指導士会会長の三田須生雄さんのお二人。

中山先生は、中山医院とかしま病院を中心に活動する、80歳を超えてなお現役の医師。いわきの地域医療を知り尽くしたレジェンドである。いごく編集部では、過去にはインタビューもさせて頂いている。三田さんは、詳しいことはこちらの記事を読んでほしい。要するに、いごくの「ネ申」です。

 

一人目の受賞者は、医師の中山元二先生(撮影・鈴木穣蔵)

 

プレゼンターの山内俊明先生(左)からトロフィーを渡される中山元二先生(右)(撮影・中村幸稚)

 

いわきでいごく。おそらく二人は、なんの功名心もなく、目の前の課題に向かって自分のできることを目一杯やってこられた。これまでにも数々の表彰を受けていらっしゃっただろうから改めて表彰なんて必要ないかもしれない。けれど、どうしても、表彰させていただきたい、みんなに知ってもらいたい、みんなから拍手を送りたい、ということなのだ。

中山先生、三田さん、これからも、いごきまくってください!

 

名前が読み上げられると「ハイッ!」と手を挙げて返事をした三田さん(写真・鈴木穣蔵)

 

三田さんの表彰後は、みんなでシルリハ体操を行いました!(撮影・中村幸稚)

 

老いも若きも体操。シルリハ体操で会場が一つになるいごくフェス最高(撮影・鈴木穣蔵)

 

表彰式は、ザ・フォーク・クルセイダーズの『帰って来たヨッパライ』からスタート。「オラは死んじまっただー」♪♪ (撮影・鈴木穣蔵)

 

音楽は、いわき吹奏楽団のみなさん。みんなで「ヤングマン」を踊りました(撮影・中村幸稚)

 

指揮者として登壇された馬目行雄さん。いごくで度々紹介している内郷の川平地区の区長さんでもある(撮影・鈴木穣蔵)

 

会場に鳴り響いた「わーいえむしーえー」の声(撮影・中村幸稚)

 

−死とは、別れとは、人生とは

今年の本公演、前回にまして重厚になっていた。「極楽浄土」というテーマが決まっていたからだろうか。確かに笑いあり涙あり、山あり谷ありという展開なのだけれど、ロクディムの即興演劇も、立川志獅丸さんの落語も、ケーシー師匠のトークも、死や極楽というテーマが静かに底に流れ、一つの壮大なドラマを見せられているようが気がした。

一番手、ロクディムは、台本なしの即興演劇でドラマを組み立てながら、あらかじめ観客から聞いておいた言葉(今までで一番印象に残っている言葉や、思い出深い言葉など)を、その劇の様々な局面で発していくスタイル。観客の言葉が劇中にしばしば登場するので、いつの間にか観客も「演者」になっていくのが面白い。

 

観客に書いてもらった言葉のアンケートを舞台上に散らすところから劇は始まる(撮影・中村幸稚)

 

取り扱うテーマは重いように見えて、みんなが笑顔になってしまう(撮影・中村幸稚)

 

死の時を迎え、三途の川を船頭とともに渡る一人の男性。愛する妻や家族の思い出話をしながら、自分の人生を振り返る。設定も台詞もコメディタッチなのだけれど、ゲラゲラと笑った次の瞬間にどきっとする言葉が出てきたり。なぜかシリアスな劇を見せられるよりも、想像力を働かせてしまう。

ロクディムの即興演劇は虚構である。虚構の世界だからこそ、そこに人の想像が入り込む隙間ができる。しかしすべてが虚構かというと、そうではない。生身の人間の「ライブ」と、観客から採取したリアルな言葉が入り込む。すると、虚構の余白に真実味のようなものが生まれ、観客は、それらを辿りながら、虚構と自分との接点を無意識に探していく。

大声で笑い、しみじみと感じ入り、大切な人の顔を思い浮かべてしまう。ロクディムの即興劇が感動的なのは、人生がそもそも即興であり、そんな即興のなかで繰り広げられるからこそ人生が楽しいということを、演者たちが伝えてくれるからだろう。ロクディムの演劇は、私たちの人生劇、そのものなのだ。

 

筋書きのないロクディムの即興劇は、人生そのものでもある(撮影:鈴木穣蔵)

 

−江戸と死神と町人たちの物語

立川志獅丸の演目は、古典落語「死神」である。金に縁のない男が、死神と出会い、死神が見える呪いをかけられ、さらに死神を追い払う呪文を教えられる。良家の跡取りの病をその呪文で治した男は富豪となって優雅な生活を送るが、欲に駆られた男は・・・という、30分ほどの演目である。

古典の名作。やはり見所は、立川志獅丸の声や表情の表現力。苦しそうな時には顔を真っ赤に、目まで充血させて苦しい素ぶりを見せたと思えば、死神の冷徹さや、その冷徹さのなかにも感じられる人情のようなものまで表現していく。キャラクターに血が通っていくのだ。

 

時に顔を真っ赤にしながら話を進める立川志獅丸(撮影・中村幸稚)

 

頼りない主人公。自殺しようとしていたのに、金に目がくらみ最期には生にしがみつく。その滑稽な姿にどこかで共感しない人はいないだろう。その「どうしようもなさ」は、私たちにもあるからだ。主人公も死神も、いかにも「どこかにいそうなもの」として描かれ、「あり得ない話」が「そうかもしれない話」として立ち現れる。

死神はいない。人間の寿命は科学で説明できる。それはそうだろう。しかし人生とは数値化できない幸せもあれば、どうしようもない悩みや葛藤がある。そういうものを受け止めるためにこそ、人は「虚構」や「架空」の力を借りるのだ。人が最期に支えにするのは、高度な医療ではなく仏や神様であるかもしれない。死神は、私たちに死をもたらすのではない。むしろ、生こそをもたらすのではないか。

 

落語が入ったことで公演のバリエーションも豊かになり、じっくりと腰を据えて楽しめるようになった(撮影・鈴木穣蔵)

 

−見せつけられた、芸人の生き様

さあ、最後の演目は、ケーシー高峰師匠の漫談である。まず衝撃的だったのは師匠の姿だった。驚いた人たちも多かっただろう。髪は白くなり、体も細くなり、酸素の吸入器を持っている。ヒゲは伸び放題に伸ばされ、眼光の鋭さも以前に比べると弱い。かつてのエネルギーに満ちた姿からは想像もできないほど、師匠は老いていらっしゃった。

しかし、それでもステージに上がろうという気持ち、なんというか、その瞬間に賭けようという気持ちの鋭さのようなものは、かつてないほど研ぎ澄まされているのかもしれない。普通なら上がらないし、上がれない。一世を風靡した芸能人である。ここまでさらけ出せる人がいるだろうかと思った。それでも舞台に上がる。その凄さを思う。

 

一気に老いられたように見える師匠だが、一瞬の切れ味は鋭さを増す(撮影:鈴木穣蔵)

 

会場の人に「人生」に関する多くの「問い」を残した師匠。まだまだ現役で長く活躍してほしい(撮影・中村幸稚)

 

10分1本勝負。壇上に上がれば軽妙だ。凄まじいプロ意識だと思う。自分の生い立ちや仕事をまったりと振り返りながら、時折冗談を交えながら昭和のシャンソンの素晴らしさを語り、いつものように「呼吸器までつけてね、腰も立たなくなったけど、あそこだけはね・・・」と観客を笑わせる。悲壮感はない。ケーシー高峰とは、そういう存在だからだ。ステージで見せつけられたのは、まさに芸に生きる男の生き様であった。

私たちは、大切な誰かと別れなければならない苦しみを生まれながらに背負わされている。お釈迦さまはそれを「愛別離苦」と言った。ただそれは「いごく」がこのフェスで伝えたいこと、そのものでもあった。人は死んでしまう。でも最後の一瞬まで生きることができる。伴走することができる、ということ。だから「動(いご)く」とは、「誰かとともに、よりよく生きようとすること」に他ならない。そんなことを、師匠の姿から再確認する。

 

−それて、それて、大それた先にある希望

 

生老病死のフェスなのに、観客の皆さんはなぜか笑顔だった(撮影・鈴木穣蔵)

 

いわきのレジェンドたちのメッセージを、子供たちはどのように受け止めたのだろう(撮影・鈴木穣蔵)

 

グランドフィナーレ。温かい拍手で会場が包まれた(撮影・鈴木穣蔵)

 

いわき市の「地域包括ケア推進課」という一部署が企画するフェスである。だいぶ大それたことをしているのかもしれない。しかし、大それたことも許されるという気もする。なぜなら、これまで生老病死の捉え方を考えてきたのは「宗教」や「哲学」なのだから。大それていて当たり前である。

しかしそれでも「いごくフェス」は、哲学者や宗教者による知の営みからだけではなく、できる限り現場で足掻いている人たちの言葉や取り組みから、その哲学を伝えていく。ケーシー師匠や元二先生や、三田さんの生の言葉だからこそ伝わるものがあると思うから。無様であろうとスマートであろうと、生き様は尊い。そして、大きの人たちに力を与えてくれる。

老いは、ネガティブなものだろうか。病や死は、本当に恐ろしいものなのだろうか。人生は、本当に苦しいものなのだろうか。認知症は不幸なもので、介護に楽しみはないのだろうか。いごくフェスは、死や病や老い、つまり「避けられないものなのに忌避されがちなもの」を経由しながら、生きることについて考えていきたい。

いごくフェスとは、きっと、よりよく生きるための哲学を考える場なのだ。これほど深く人生を考えることって、そうないもの。そして大事なことは、その哲学者は、地域にもいるということ。本屋でしか出会えない、わけではない。哲学者は、案外、あなたのうちにもいるのかもしれない。

 


公開日:2018年10月28日